たとえば、pikarrrさんの「pikarrr のブログ」の『2008-06-29 なぜ資本主義は「創造」を強迫するのか』http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080629 にてとても明晰なことばで語られているように、

現代において、労働が機械化されることで、大量生産が無人で、安価で行われるようになっている。そのために一般商品の価格は下がり、創造的な付加価値が高価になる。このように創造的な消費は創造的な生産を促し、労働者は創造的であることが求められている。すなわち労働と創造の境界は解体されつつある。

ことは紛れも無い事実であり、また

資本主義の動力は決して資本家の卑しい欲望にのみあるのではなく、大量の商品を飲み込む巨大な欲望が必要なのである。それは動物化した労働者がただ生きるための「欲求」として消費するだけでは不十分である。「人間化」して自らの存在意義(承認)を「欲望」する終わりない消費が必要なのである。

こともまた事実である。ひとつめの引用にかんしていえば、労働からみた創造について語られているわけだけれど、労働と創造の境界の解体は、労働と創造の双方から同時に進んでいる。というよりも、もともとお互いに共通する部分を持っていながら分裂した(させられた、または分裂しうると規定された?すくなくともマルクスの時点ではそうなっているような。。ちなみに、山中隆次・鶴田満彦・吉原泰助・二瓶剛男「マルクス資本論入門」第2編 第一巻・資本の生産過程 1商品と貨幣の注釈"労働価値説への批判"にこういう箇所がある。

そのようなマルクス批判(労働価値説への批判-引用者注)の一論点として、マルクスが等しくおかれた諸商品にふくまれている共通者として抽象的人間労働をとりだしてくるさい、鉄とか小麦といった労働生産物のみをとりあげて、土地とか骨董品などを無視したのは不当だというものがあります。しかし、こういった批判の根本的な欠陥は、小麦や鉄などの「再生産可能な商品」と土地や骨董品などの「再生産不可能な商品」とをはじめから同列に論じようとする点にあります。人間の経済活動を根本的にささえているものが再生産活動であることを考えれば、再生産可能な商品は、人間の経済活動にとって決定的な意味をもった、基本的な商品であって、けっして再生産不可能な商品と同列に論じられるべきものではありません。

ここでなされる再批判はもっともだとも思うけれど、再生産不可能な商品が、それが再生産不可能であったときの性質をもそのままに、形態を変えて(形態が変わったからこそ?)再生産可能になった場合、いったいどうなるのか、という視点がここにはない、ような)ふたつの概念の、その共通部分をもとに統合を図っているのが、資本主義的な思考(というと曖昧すぎるような気もする。消費の思考といってもことば足らずだし、錬金術的思考という方がまだましっぽい。ここでいう錬金術とは、卑金属から貴金属を精錬する技術、というよりも、そのような技術そのものを可能であると錯誤する技術のこと)であることが問題なのかもしれない。共通部分(の曖昧さ)に関してはpikarrrさんの『2008-06-29 なぜ資本主義は「創造」を強迫するのか』に引用されたアガンベンの文章が参考になりそうな。しかし、まあ、資本主義というか錬金術的思考(もちろんわるく言えば。よく言えば生きる意志とでも言えるのだろうか。よく言いすぎだろうか)は、使えそうなものはほんとになんでも使うんだなあと。芸術は一種のサービス業として労働化・商品化していくし、労働は一種の芸術として唯一性を産出・反復する。でも、私の思い違いでなければ、ふたつが完全に統合することはありえない。そもそもふたつが関連付けられうるのは共通部分があるからであって、厳密にいえば、ひとつのもの(創造=労働、創造すなわち労働、創造であり労働であるもの)のなかのふたつの要素(創造/労働)の比率のその都度の割合そのものの顕れなのであって、その比率をなんらかの割合に固定することはおそらくできないからだ。というかする意味がない。というふうに思うのは、どちらか片方を擁護したいからではなくて、現実的に考えたとき、創造における労働は経済的な観点でしかみられないだろうし、労働における創造もまた経済的な観点でしかみられないであろうからだ。前者は「流通」にまつわる普遍化の問題(唯一性を社会的に位置付ける技術)、後者は「差異」にまつわる特殊化の問題(無限に付加価値を産出する技術)にしか言及しなさそうな感じがする、いまのところ。そしていま挙げた前者と後者の問題は、ほとんど同じものである、ことにいま書いてみて気付いてびっくりした。それぞれまったく同じことを合わせ鏡のように反転したベクトルでやっている。あと、創造と労働という対立ならぬ対立から想像される、作品と商品という対立ならざる対立について考えると、いまやその価値が付加価値だけしかない、という点で共通している。作品はそもそも付加価値(と呼ぶかどうかは別にして。どちらにしろ実体のない幽霊のような価値、価値ならざる価値だ)しかないものだし(実用性があるわけでもないし、物質としてのそれ自体の価値や労働量としての価値はたいしたことない。作品の価値は「独創性」に要約できる(と思われている))、商品は付加価値でしか他の商品との差異を表せない(と思われている)。こうなるとこのふたつの違いがいったいどこにあるというのだろうか。といいつつも、安易にどちらかをどちらかに回収してもしょうがないのでひとまずは、回収しきれない、と仮定して考えていきたい。たんに天の邪鬼なだけかもしれないけど、そういうふうに考える方が絶対たのしい気がするというだけだし、私は作品でも商品でもないものにかかわりたい。私が、創造と労働または生産と消費または作品と商品の境界が不要だと考えるとき、その対立をも含めて(pikarrrさんの文章に即していえば、資本主義をも含めて)、不要だと考えているのだけれど、そうなったとき、いまのままの私自身の思考(すなわちひとつの世界の思考?)では、それをどうしても現実(資本主義的な?)に落とし込めない。というか実際の(社会的な)生活から遊離したものしかイメージできない。実際の(社会的な)生活の「外側」としてならまったく何の問題もなくイメージ可能なのだけれど、それではまったく何の意味も意義もないわけで、そういうのがhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20080627などにも表れていて、しかしイメージ不可能であるからといって、それが不要なわけではないし、不可能であるわけでもあるまい、と天の邪鬼なので思うわけで、よくよく考えれば、実際の(社会的な)生活から遊離したものしかイメージできないのは、そのイメージといまの現実(資本主義的な?)それぞれの依って立つ論理がまったく相反するからで、それらの論理の違いを探査するのが大事なのかもしれない。とは書いてはみたもののさっぱりこれっぽっちも先のみえないはなしだ。。ああ、そうだそうだ、ふたつめの引用について思ったことを書き忘れていて、私は人間が「「人間化」して自らの存在意義(承認)を「欲望」する」のは本能(存在そのものにあらかじめ埋め込まれた、という意味での)のようなものだと思っていたのだけれど、ひょっとすると、あらゆる意味で「社会的な」本能なのかもしれない、と思いました。消費のために欲望するのかもしれないし、欲望のために消費するのかもしれない。お互いに、利害の一致した共犯関係にあるのかもしれない。