今日(日付がずれているから昨日)の夕食は、親父が名古屋へ行っているので、母ちゃんとふたり。ゴーヤチャンプルとみそ汁をつくる。どっちも私がつくる。母ちゃんは米を炊いたりねぎを切ったりとか。ゴーヤチャンプルはかつおとにんにくの味さえすれば、なんとかなる。おー、いやいや、デザインが、現実の問題をはっきりさせ、問題へのアプローチを可能にするものである、ということを忘れていた。カーサブルータスの今月号(8月号・100号記念)で読んだ、アートディレクター水野学さん(good design companyの。ラーメンズ関連の一連のアートワークが記憶に残っている)の連載、「メシ食いに、行きませんか?」14回・吉岡徳仁さんの回で、このことを思い出した。印象深いところを抜粋して引用。

水野『問題解決のためには一つだけでなく何通りもの方法があるわけで、それがプロダクトになることもあればファッションになることもあるわけだし。』

吉岡『僕の場合「なぜこれを作らなくてはならないか」ということが重要であって、できたものが建築でもプロダクトでもかまわないんです。』

吉岡『僕は時間がたっても感動してもらえるようなものを作りたいんです。ただし、形が残らなくてもコンセプトや考え方が残ればいい。そうやって歴史に石を投げるようなものを作りたい』

昨日の2、3、4をひとまずさっさと捨てて、1.「世の中にはこんなにモノやコトがあるのに(いま周りを見渡しても、過去に遡ってみても)、新たななにかが日々つくられ続けるのはなぜか、つくりたくなるのはなぜか。」に自分で答えてみる。「つくる」ことにはみっつの要素があるように思える。まずひとつに、問題の性質をはっきりさせそれへアプローチする方法として。日々、社会というものは変化していて、新たな問題(潜在的な)が次々に生じるため、これが必要になるといえるかもしれない。でもこういう語り方をするときの「社会」って「都会」のような気もする。ふたつめに、市場に流通させ経済活動で利益を得るための商品を生産する方法として。こんなんつくったけどいらん?というタイプのあれ(みんなでつくって(売って)みんなでつかえば(買えば)みんなが幸せ(??))。ないしは、市場に流通させ芸術活動で名声を得るための作品を創造する方法として。こんなんつくったけどどう?というタイプのあれ(みんなでつくって(発表して)みんなで鑑賞すれば(褒めあえば)みんなが幸せ(??))。みっつめに、「つくる」ことが目的であること、つまり、いわゆる「つくる」ことの喜びを自ら得るための方法として。この場合、「つくる」結果としてできあがったモノ自体は二次的な扱いをされることもある。いま私に分かるのはこれくらいで、なにかを「つくる」とき、このみっつの要素がそれぞれの場合でいろんな比率で混ざっているような気がする、というところまで。まだ要素があるかもしれない。そしてなにより、誰かがもっと正確に精密に語ってくれているかもしれない。(ためしに自分について考えてみると、どうも、みっつめの要素を100%にして、なおかつ、極力それを自分で受け取らないようにすることで(反転?)、なんとかひとつめの要素100%のものにならないかなあ、という感じ?意味不明だけれども、、)あと、ひとつめの要素の場合、その問題の範囲(圏)の設定が重要だということで、あまりに特殊な問題設定だと社会に与える影響も範囲に応じて限定されるし、逆に、あまりに普遍な問題設定だと社会に与える影響が広すぎて浅くなる。特殊な問題は、かなりのところまではっきりさせて具体的な答えまで出せるが(トンカチをつくったことにより解決された問題はものすごく限定された状況下のものだけれど、そのぶん完璧に解決されている)、普遍な問題は、あまりはっきりさせると特殊な問題の寄せ集めになり結局バラバラと分散していくので、ぼんやりとぜんたいを包む抽象的な答えに留まざるを得ない。ああ、そういや、6月28(土) には、築港ARC月例トークサロンvol.15が。「中学・高校生に伝えるフリーペーパーの可能性」とのことで、『ゲストはイラストレーター:makomoとして制作活動しながら、京都市内の中・高校生を中心に向けて配布しているフリーペーパー「temiru(てみる)」の編集をされているNPO法人芸術活動推進プランユノーの高橋誠さん。』とのこと。このまえカブックでtemiruもらってきたなあ。あと、もう15回なんだなあ。はやいもんだ。

ARCトークコンピレーション#015
「中学・高校生に伝えるフリーペーパーの可能性」

出演:
高橋誠(NPO法人芸術活動推進プランユノー / イラストレーター「makomo」)
http://www.juno.or.jp/NPO法人芸術活動推進プランユノー)
http://www.makomo.jp/(makomo ホームページ)


ファシリテーター
アサダワタル(築港ARCチーフディレクター/大和川レコード)
蛇谷りえ(築港ARCサブディレクター/アーティスト)


日 時:6月28日(土) 18:00〜20:00
参加費:1000円(資料・お茶代)
会場:築港ARC(大阪市港区築港2-8-24piaNPO308)
お問い合わせ・お申し込みなどの詳細は
http://www.webarc.jp/にて。

うーん、書いてお風呂に入っているあいだにひとつ要素を見落としている、というか、ふたつに分けるべきものをひとつにまとめてしまっている気がしてきて、自分で「自分」をつくる作業の方法、自己規定のための「つくる」を、いわゆる「つくる」ことの喜びを自ら得るための方法に入れてしまっているような。たとえば、竹とんぼをつくるひとは、竹とんぼをつくると同時に、竹とんぼ職人としての自分もつくっている。ロックバンドのギタリストは、ギターでロックミュージックをつくると同時に、ロックギタリストとしての自分もつくっている(なので、自分探しなんてものはなくて、自分作りしかない、たぶん。探すための方法を選んだ時点で、その方法に自分は規定されている)。このような要素を、いわゆる「つくる」ことの喜びを自ら得るための方法に入れてしまうのはちょっと乱暴かと。それはそれで喜びではあるだろうけれど、ちょっと違う種類でもある。そこで、「いわゆる「つくる」ことの喜び」は純粋に身体的な(スポーツのような?)運動そのものに没頭する喜びということにして、分けてしまうと、A:(現実の)問題の性質をはっきりさせそれへアプローチする方法。B:市場に流通させ経済活動で利益(貨幣・名声)を得るための商品(作品)を生産(創造)する方法。C:身体的な運動そのものに没頭する喜びを自ら得るための方法。D:自己規定(自己へ、自己の思う「自己」なるものを刷り込むこと)の方法。というふうになるのかもしれないけれども、なんとなく腑に落ちないというか、これらの関係は、比率(すなわち横の関係)というより階層というか次元(縦の関係)のような気もするし、どうなんだろう。。ひとまず保留しなければ。。あと、さきほどたまたまたどり着いたブログをみて、もー、だから、ひどいひどくないとか面白い面白くないとかじゃないっつーの!そしてあれがそういうものだった、というわけではなく、ぜんぶがそうなの!という気持ちになるが、それはそれでいいか、という気持ちにもなったりする。なんかわざとああいう言い方っぽいし。でも、どういうアプローチをとるにせよ、○か×かの判断だけではなく、それに付随したなんらかの内容をすこしでも、その判断の対象に付け加えてほしい。めんどくさいけど。。というか、なんらかの発言をする以上、付け加える「べき」だ。でなければ、黙考している方がましだ。発言や判断もまた表現なのだから。よかったなら「どう」よかったか、わるかったなら「どう」わるかったか、考えないと考える甲斐がないではないか。違いますか?良いか悪いか善いか悪いか面白いか面白くないか楽しいか楽しくないか、ではなくて、その対象から自分に必要ななにかをむしりとれるかどうか、だけだと私は思っています。「よい」とする立場、「わるい」とする立場、または他の立場、などなど複数の立場において語ることもできるはず。こういうふうに言い続けることで、それが自分の身に付くかも、という意味で、これはD:自己規定(自己へ、自己の思う「自己」なるものを刷り込むこと)の方法、の一種なのかもしれない。とはいえ、あまりに「自己」ということばの届く範囲を広くとりすぎているような気がしなくもないし、勢いや怒りにまかせて書くのはすごくかんたんだし読むのもかんたんだ。わかりやすいから。事務所で発注のファックスがきて商品を集めてきて荷造りをしたりするあいだにFMが耳にはいってきていて、しょっちゅう、それこそしょっちゅうかかっている曲があって、女性のうたで、英語で、曲を流すまえにディスクジョッキー(なんか番組中にエアジョッキーって自称してたような気もする)が紹介してくれるのだけれど、バイリンガルだったかハーフだったかの女性なので発音が良くまったく聞き取れない。辛うじて聞き取れた曲名の一部とおぼしき「レッツスタート〜」でググってみたところ、「レッツスタート FM」で検索してみたところ、どうやらその女性歌手らしき人名が出てきていて、この曲だった。「テン、テレレン、テン、テン、テン」というイントロがかかった瞬間にまたか、、と思うくらいには、聞いた。ラジオで。この前はコールドプレイのアルバム発売日とのことで、一日中コールドプレイの「テッテッテッテ、テッテーテッテッテ、テッテッテッテ、テッテーテッテッテ」っていうストリングスのイントロではじまる曲を聞かされた。ヴィタなんとかという曲、たしか。NHKってCMを見させられない代わりに受信料をとられるんだなあ、と、なぜ民放やラジオの受信料がないのかラジオを聞きながら考えたら分かった。

Joanna Wang「Let's Start from Here」

Coldplay「Viva La Vida」