いまフジテレビでやっている昼ドラの「花衣夢衣」がしばらく見ないあいだにえらいことに。まさしさんが。。あれなんだったか、長澤まさみさんとか上野樹里さんとか出ているあれもこれでもかというくらいにややこしい。あんなにややこしいことが同時期に一カ所に集まることなんてそうそうなかろうに。昨日のつづきで、そうなるとまたもや、必要/不必要、という判断のための基準が必要になってきてしまうし、でももちろんモノやコトの性質を極限まで抽出して、その性質に照らし合わせてより無駄がないものブレがないものを選べばいいということになるだろうことは想像できるけれども、そうなると、どうしても「かたち」のうえでのバリエーションをすべて否定しないと貫徹できない。たとえば、コーヒーカップの性質・機能を無駄なく表現したコーヒーカップが唯一の必要なコーヒーカップであって、それ以外のコーヒーカップは不必要である、みたいなことになってしまう、突き詰めると。ああいやいや、違うな。そもそもこの考えは「コーヒーカップの性質・機能を無駄なく表現したコーヒーカップ」なるものが可能である・存在しうることを前提としているし、たぶん「コーヒーカップ」というスタート地点が根源的でない。別にコーヒーカップはコーヒーを入れるだけのものでなく、カップの一種なのであって、コーヒーを入れることに特化したカップなど原理的にありえない。あったとしても、それに紅茶を入れちゃいけない理由はない。コーヒーカップというたとえがよろしくなく、これがいまの私の混乱のもとである、ということは分かったけれど、それだけしかまだ分かっていない。さきの問題に戻ると、これはたぶん「かたち」を結果として考えるからで、「かたち」を原因と考えれば、そうでもないか。おそらく「かたち」には常に複数の必要が含まれていて、それらをなるべく曖昧なままそれぞれにすぐ使える状態にしておいた方がよいのかもしれない。しかし、「かたち」のうえでのバリエーションをすべて否定しないにしても、すべて肯定する理由もない。やはり人間の仕組みに最適化した「かたち」というのは、限定的であるにしても、可能であるだろうし、でも、なんかもういまの時代ひょっとしたら、たんに「趣味」を「生み出す」「定着させる」ことが問題なのかもしれない。人間の仕組みに最適化した「かたち」というものが仮にあるとしても、それは選択肢のひとつにしかなりえないのだろうし。軽くて持ちやすくて口当たりのよいコーヒーカップよりも、重くて持ちにくくて口当たりが悪くてもかわいい柄のコーヒーカップがいい!という「趣味」もありうる、もちろん。そのモノのなかにある複数の要素のバランスをみて、そのバランスと自分の「趣味」の妥協点を見いだせたら、それを使おうと思うのかもしれない。と、なると、その「趣味」はどこから来はったのか。。社会的に形作られたトータルの人間像(趣味によって制御された)のテンプレートがいくつかあって、私たちはそれらのなかからどれかを選んで、部分的に手を加えたりしているだけかもしれない。服の方に身体を合わせる要領で(そもそも自分の「趣味」を自分で考え出せるひとなんているわけないし、オーダーメイドは手間とお金がかかるし)。街を歩いていると、そういうふうに思えてくる。誰かと、細部まで似ているわけではないが、ぜんたいとして似ているひと、はたくさんいて、私もそういうひとのひとりなのだろうと思う。見た目もそうだし見えないところもそうだし。あと、どうでもいいけれど、ホームセンターとかショッピングモールとかに行ったときに、トイレで小さい方の用を足しながらふと目をあげると、その施設に入っている携帯屋さんの広告とか尿もれがどうとかいう広告が貼ってあって、アメ村のしつこくてなれなれしい客引きのようで、なんだか腹立たしい。電車の中吊りもそうだけれど、あれは自主的に見ているというよりも見させられているもので、ああいうのを見ない権利、というのは私たちにはないのだろうか。電車の切符にはその保証が含まれているのだろうか。壁に貼り付いて動かないが声だけはでかい客引きがいっぱいいる。それらを嬉々としてまたは嫌々ながら(マウスを動かして)つくるひともいっぱいいる。こういうふうに、あまりよく分かっていないことを勢いで書くと、結局よく分からないままになってしまって、ぐるぐる回っているだけのよう。ものすごく単純にちゃんと分かっている範囲で自分にも分かるように整理しよう。1.世の中にはこんなにモノやコトがあるのに(いま周りを見渡しても、過去に遡ってみても)、新たななにかが日々つくられ続けるのはなぜか、つくりたくなるのはなぜか。2.自分にとっての「必要」と、自分以外のあらゆるすべての存在にとっての「必要」を、意図的に混同しない限り、新たななにかをつくり続けることは不可能なのではないか。3.「必要」ということばを使って語るとき、あらゆるすべてに先だって「必要(と不必要)」という事態があるかのように考えてしまっているけれど、「必要(と不必要)」という事態は、隠れているものを発見するというようなものではなく、ある具体的ななんらかの「かたち」(をつくること)によって作り出されているようなものなのではないか。4.「必要(と不必要)」ということばの、区別のための線引きとして、ではない、使い方はないものか。やはり、ある具体的な時間と空間を伴う個別の状況のそれぞれについて考えるしかないのかしら。