4月12日(土)は、神戸アートビレッジセンターにて、村山政二朗・江崎將史・木下和重「公開レコーディング」。前日に江崎さんから受付をやってくれないかという連絡が入ったので、受付業務。が、誰がゲストで誰がゲストではないかよく分からない。この界隈の人々と絡むことがまったくないのでしょうがない。いちおうおつり用の小銭を用意していく。40分・20分・10分の3セット。録音は宇波さん。最初のセットの最後らへんで、木下さんがおなかをおさえて、ウウッとか言いながら痙攣したりしていて、なにやら緊急事態の雰囲気が漂うが、演奏という時間は容赦なく進む。あとで聞いたところによると、風邪をひいていて咳止めの薬を飲んでいたらしく、咳止めが切れて咳が出そうになるのを我慢していたら、おかしなことになってきて、でもこれはこれで面白いからそのままいった、とのことで、村山さんに至っては「そういう」演奏だと思った、とか言っていて、すさまじい。演奏終了後すぐ倒れたりするんじゃなかろうか、救急車を呼ばないといけないのでは、とか心配して損した。村山さんがはだしだったのが気になった。はだしっていいなあと思って、13日のFtarri Festival京都では、村山さんにならってはだしでステージに立つ。でもFtarri Festival京都では村山さんははだしじゃなかった。江崎さんは3セットを通じてそれぞれロングトーンを3音しか発しなかった。つまり1セット1音ということで、けれども、それは「結果的に」であって、あらかじめ決められたものではない。その証拠に、なるかどうかは分からないけれど、その1音を発するまでは、「ひょっとしたら1音も発さないかも」みたいな空気を出している反面、1音を発したあとは、「ひょっとしたらまだ音を発するかも」という空気を出していた。1セット1音という決まりごとがあるかのように見えて、そんな決まりごとなんていつでも変えてやるぜ!というような不穏な空気を常に漂わせている。なので油断ならない。1セット1音なのね、はい、もう分かった、とか思っていると、思わぬところから襲いかかられそうな。私は1セット目の途中(たしか1音を発したあとだったような)から、ひょっとしたら1音だけしか発しないのかも、と思ったけれど、だからといって上述したようにその枠組みじたいは安定したものではないので、安心はできない。1音を発するまでは、「それはいつなのか」が気になり、1音を発したあとは、「まだ発するかも」が気になり続ける。音を出していないにも関わらず、江崎さんは私たちの意識に影響を与え続ける。終了後、新開地の八喜為(はきだめ)という居酒屋にて打ち上げ。お会計を宇波さんがいったん払って、みんなで割り勘して宇波さんに渡すときに、今日のおつり用に作った小銭で払ったためかるく叱られる。私が、江崎さんが1音しか発さないかもと途中から思っていた、というと、村山さんは、江崎君が1音しか発さないだろうって途中で分かった?と執拗にみんなに訊いていて、なんというか村山さんは、自分の疑問とか興味に誠実かつ忠実で、いいなあと思う。はなしていて楽しい。村山さんみたいになりたい。いまラジカセから流れているのは大瀧詠一君は天然色」。4月13日(日)は、京都のアバンギルドにて、Ftarri Festival京都。当たり前のようにリハなどないのがちょっとうける。セッティングがややこしい海外組はリハしていたけど。お客さんがやたらいてびっくりする。しかも見たことない人ばっかり。第一部は、みつ君・江崎さん・木下さんというcom+positionのメンバーで演奏されるみつ君の曲から。木下さんがギーギーギーとロングトーンを発するなか、フルートを持ったみつ君とトランペットを持った江崎さんは音を発することなく楽譜をめくり続け、みつ君がclaves(火の用心〜とか言いながらカチンと鳴らすアレっぽいやつ)をカツーンと鳴らして終わり。と、ことばで捉えるとこういうふうに言うより他ないということは、たぶん、ことばは「点」的、というか、要「点」というか分節「点」というか、そういう目印になるところしか捉えられないからで、具体的なことを列挙してもあまり意味はない(こともない、とも思うけど)。最近のみつ君の曲には、時間の過ごし方をサポートする、みたいな感じがあって(あくまで「サポート」であるところがミソ)、教えられることがたくさんある。また改めて考えたい。次はNoidさんと宇波さんのデュオ。チェロとコンピュータ制御のモーター(が叩く机の音とか)のデュオ。Noidさんの背後に宇波さんがいて、Noidさんの影になって宇波さんと宇波さんの機材が見えないのが面白い。腹話術みたい。次は半野田拓さんのソロ。 エレキギター、だったかしら。何度か笑った記憶があるけれど、なんで笑ったかを憶えてない。憶えてないくらいがいちばんいいのかもしれない。次は山本精一さんと梅田哲也君のデュオ。ステージ中央に座った山本さんはアコギとyang chinなるハンマーダルシマーっぽいなにか。 ステージ左側とドリンクカウンターのあいだに立っている梅田君は、持ってきた自前の扇風機と会場の扇風機とかたぶん自作のスピーカーとか。なんだか分からないけど火花が出て(電流が流れて?)、天井近くについている会場の扇風機が回ったり。自作のスピーカーがフィードバックしたり。山本さんはアコギに石っぽいなにかを入れてガラガラしたり。yang chinなるハンマーダルシマーっぽいなにかを弾いたり。で、第一部が終了。休憩。神谷さんと話したりきんじょうと話したりぐっさんと話したり。第二部は、アキビンオオケストラ と村山政二朗さんから。村山さんは昨日とはちょっと違って、はだしじゃないし、手首に巻いたベルトのようなものに仕込んだ(コンタクト?)マイクで拾った音をPAから出したりもする。後半は手首に口を当ててチューチューしていた。前半の、ふらふらとさまようアキビンの音と、たまにタン!と叩かれるスネアの音の感じが、しぶいなあ、と思ったら江崎さん曰く、前半のアキビンサイドは即興で、途中からは作曲されたものになっていたとのこと。たしかに途中からアキビンオオケストラは組織された動きになっていた。それで、複数の人間で組織されたものに村山さんひとりがどう関わるか、みたいな感じに見えるときもあり、そう見てしまうとすこし興醒めでもある。次はBusRatchとRyu Hankilの(人数でいえば)トリオ。BusRatchのおふたりはそれぞれターンテーブルといろいろ。リュウさんは時計とコンタクトマイクとミキサーとかっぽい。モウリさんが淡々としているのに対してヤマモトさんはやたら動く。ミキサーみたいなのをずわっと横に滑らせてターンテーブルにガツーンとぶつけたときに、ターンテーブルのカートリッジが動いたのか、ガツーンという音がして、なんか笑えた。なんでミキサーをずわっと横に滑らす必要があるのか、と思ったら楽しくなって、その他にもヤマモトさんは、途中でおもむろにジャンパーから携帯を出してパカッとふたを開けて時間を確認してそのまま機材の乗っているテーブルの上にがちゃっと投げやりな感じで置いていて、それもなんだか良かった。なんとなくAsunA名義の嵐君のライブを思い出させる。リュウさんはちょうどモウリさんとヤマモトさんの中間といった感じのテンション。演奏が進んでいくにつれだんだん、乗ってきたぞー!という雰囲気が出てきて、そういう雰囲気があったのは今回のイベントでこの三人だけだったような。次はKlaus FilipとKai FagaschinskiのLos Glissandinos。実のところ、道に迷ったどいさんをナビゲートするため外に出ていてほとんど聞いていない。最初のあたりを少し聞いたけど、おお、まんまCD(「Stand Clear」)と同じだ!とは思った。サインウェイブとクラリネットの干渉。クラウスさんが着ていた赤いジャージが可愛かった。そういえば、Noidさんの着ていたカーキ色のジャケットも可愛かった。バックにプリントのあるジャケット。で、第二部が終了。休憩。きんじょうと階段ではなしたり。ぐっさんを見失う。東君にものすごく久しぶりに会う。なにあの写真?と笑いながら指摘を受ける。プロフィール写真のこと。B-BOYもどき。第三部は、木下和重さんと 磯端伸一さんと私のトリオから。セッティングのときにPAの方に、スピーカーのうえに扇風機を置いてもいいですか?と聞くと一瞬なんのこと?という顔をされる。ステージを客席から見て、左に木下さん、真ん中に私、右に磯端さん、というなんだか恐れ多い並び。ステージを客席から見て、左側のスピーカーの上に、カバーにビニールテープを巻きつけた扇風機を上向きにして置く(スイッチが入ると扇風機が回り風が発生してビニールテープがふわりと浮き上がる)。ステージを客席から見て、右側のスピーカーの上に、電気ストーブを置く(スイッチが入るとヒーター部分が赤くなる)。ステージ上の木下さんの後ろあたりにある机にいつも枕元に置いている卓上ライトを置く(スイッチが入るとピカッと点灯)。ステージ上の磯端さんの後ろあたりにあるスピーカーの上にいつもCD棚のあたりに置いているプラスマイナスゼロ(http://www.plusminuszero.jp/)のお皿つきライトを置く(スイッチが入るとボヤッと点灯)。そして、それらの電源ケーブルを足元においたそれぞれにスイッチのついた電源タップに繋げる。こうすることで、4つの電化製品の電源のon/offをはだしの足の指で切り替える。と思いきや、意外にスイッチとスイッチのあいだが狭くてうまいこと指が入らなくてなんだか面白い。というふうにやることの「形式」を語ることでぜんぶを語りきれる、わけではないけれども、私にはそういうふうに思ってしまっているふしがある。これは木下さんが「赤目」で批判している「出落ち」の考えに繋がる。というよりも、実際にやってみないと分からない「内容」についてあらかじめ考えることが下手なのかもしれない。というわけで、案の定というか、当たり前でもあるけれど、見て見ぬふりをしていた問題が演奏中に生じる。電化製品の視覚的なon/offを音楽の文脈に置く、ということは、つまり、演奏として、スイッチを入れる(音楽に置き換えると「発音」の)タイミングだけが問題になる、ということで、これには実は気付いていて、タイミングをあらかじめ決めるとか、30分のあいだに4つの電化製品のon/offそれぞれの順列と組合せを合わせた全てのパターンを一回づつやるとか、考えたけれど、結局なんとなくやめて、適当にやることにした。演奏の最初のあたりは、長い時間のスパンで切り替えをできたけれど、途中から自分で自分のやっていることに飽きてきて変化が欲しくなり、切り替えの時間のスパンが短くなったりしてきて、なんだかだんだん追い詰められる感じに。私が自分で自分の首を絞めているなか、木下さんと磯端さんは淡々と演奏を続けている。最初のあたりは単音を発したり細いロングトーンを発したりしていた木下さんは途中からぎしぎしぎしぎしと弓で弦をこする行為に没頭している。磯端さんは変わらず自分の演奏を続けている。このふたりとの演奏だからこそ、やりたい放題やらせてもらえるんだなあとつくづく思う。でも追い詰められるといっても、それは音楽の文脈のなかだけであって、それに則さない見方にはどう見えていたか、というのももちろんあるけれど。そして、どちらかといえば、そちらの方に賭けたいが、だからといって、うまいこと時間を過ごせなかった(つまり、「演奏」できなかった)言い訳にはならない(でも「演奏」には行きたくないというややこしい気持ち)。演奏終了後のIMJの鈴木さんからの「磯端伸一、ギター、木下和重、ヴァイオリン、小田寛一郎、、いろいろやってました」という紹介にちょっとうける。私たちの次は、西川文章さんとTim OliveさんとHacoさんのトリオ。 ゆらゆらと揺れながら独特のタイミングで、エレキギターの生音と増幅された音を混ぜ合わせる西川さんがしぶい。3人で1人のような演奏で、動きがあって、短めに終わり、なんだか炭酸飲料のようでもある。演奏終了後なんとなくさっぱりした、という意味で。最後にradianのドラマーMartin Brandlmayrと、コンピュータを使うNicholas Bussmannによる、Kapital Band I。なんというかさすがにきちんとできあがった演奏。演奏前にちゃんとステージ裏でステージ衣装に着替えていたし。ちょっとポップなradian?たしかにMartin Brandlmayrのドラムはすごいなあ、キックのドンって音を聴くだけで、おお、radianのあのキックの音だ、とか思って、割と嬉しいけれども、ステージ左側とドリンクカウンターのあいだらへんの段差に座って聴いていたら、少し居眠りしてしまう。イベント終了後すこしダラダラして、神谷さんにカセットを、三宅さんにCDRを贈呈し、山崎さんにあるブツのお礼としてカセットとCDRと銀座のライブのCDRを贈呈し、村山さんとCDRとCDの交換をして、木下さんにCDをいただく。3つほど置いていた無料カセットは早々になくなり(タダだから)、CDRもひとつ売れていた。帰りは、山崎さんとみつ君と江崎さんと西川さんと梅田君とhacoさんとJRにて帰宅。JR六甲道から坂道を歩くあいだに、江崎さんから貴重な意見をいただく。おだ君がやった電化製品のon/offはロングトーンだよね、という鋭い洞察。その一週間後の4月20日(日)は本町のシェ・ドゥーヴルにて、com+position 7。たしか最初は江崎さんの曲「巴投げ(仮)」。観客全員にストップウォチを渡して、みんなで時間(の計測)を共有。せーのでぴっと押す。ティムが失敗する。笑う。それで、この曲のトランペットのパートの楽譜をみんなに渡して、江崎さんは近所の公園で吹く。つまり、実際には聞こえないトランペットのパートの音を想像しつつ、ヴァイオリン・フルートの音と合わせて楽しむ、ということ。2セットやる。1セット目はたしか、トランペットはみんなに渡した楽譜に基づき、ヴァイオリン・フルートは即興。2セット目はトランペットは同じくさっきの楽譜に基づき、ヴァイオリン・フルートもそれぞれの楽譜に基づくもの。いま江崎さん吹いているんだろうなーと想像する。そして、江崎さんが吹いているらしき時間に合わせて、ホットワインを飲んでみたり上着を脱いでみたりする。次に木下さんの曲「5」。「5」にまつわる曲で、「5」を感じながら聞いてください、とのことで、みんなで「5」を感じる。どう「5」だったのかという野暮なことは書かない。というか私自身は残念ながら具体的に「5」を感じることはできなかったけれども、いままでの木下さんの曲とは趣きが異なり、生成を思わせる。3人の奏者がそれぞれの内的なルールに従っていたら、結果的にぜんたいの秩序が生まれる、というような。最後にみつ君の曲「coaching」。Ftarri Festival京都での曲をさらにおしすすめた(かのような)曲。木下さんのヴァイオリンが消え、それぞれにそれぞれの楽器を持った3人はひたすら楽譜をめくり続ける。最後のカツーンがあったかどうかいまひとつ憶えていないのは、みつ君がつくりだした(というより導き出した、というほうが近いかも)時間(であり空間でもある)でただぼーっとしていたからで、なんというか、ただぼーっとしていても許される音楽の時間というのは初めて体験したような気がする。といっても、ただぼーっとする、とかうっかりいってしまうと、なんかゆるーいイメージがつきまとったりして表現として的確ではなくて、奏者がいて、観客がいて、音楽が演奏されていながら(音楽の時間が進んでいることを示す「サイン」のみの音楽であるために)、音楽にもひとにも、誰ともかかわる必要もなく、ひとりになれる時間という意味で。まわりにひとがいるにも関わらず、いっさい気にする必要がない、というのはものすごく変な感じでもある。みつ君の曲のあいだ、いろいろ考えごとしたようなしなかったような気がするが、憶えていない。みつ君の音楽は、「時間の過ごし方」の提案なのかもしれない、と思った。そしてそもそも音楽はそういうものなのかもしれない、とも思った。その35日後の5月25日(日)は本町のシェ・ドゥーヴルにて、com+position 8。シェ・ドゥーヴルでは奥のギャラリースペースで展示をやっていて、その展示のタイトルが入り口横の大きなガラス窓の左端に記してあって、あれなんだったか、そういうときに使うテープで。文字をかたどって。なんか3文字の女性の名前のようなタイトルだったけれど、思い出せない。よねこ、とか、まさこ、とかそういう感じ。最初は江崎さんの曲「しりとり」。タイトル通り3人でしりとりをしていくのだけれど、あるキーワードを言うとルールが変わるようになっている。最初は3人べつべつに同時にひとりしりとりをしていて、誰かがそのキーワードを言うと、3人しりとりに変わる。はじめるときのスタートのことばが決まっていたかどうかは憶えていないが、こういう計算の場合、初期値は重要だ。といっても、初期値で以後の振る舞いの傾向が決まる、なんていう決定論は何の役にも立たないし、ひとを活かすこともしない。木下さんの渾身のキラーワード「らんばだ」の威力はすさまじい。江崎さんも考えに考えて「だんたい」。「だんたい」って。なんだか江崎さんらしい。しりとりを2セットやって「しりとり」は終了。次はみつ君の曲「(音と言葉、外気)」。演奏中の入退出禁止とのこと。みつ君は会場奥のギャラリースペースにピアニカを持って座り、江崎さんと木下さんは入り口付近の定位置に英和辞書を持って座る。で、なんとなくはじまっているのかいないのか、という感じでスタートし、しばらくして、みつ君が奥のギャラリースペースから歩いてきてドアを開けてまた奥に戻る(ドアを開けているあいだに誰か入ってきたら面白いのになあと思う。入退出禁止といいつつ状況としては普段より入退出がしやすい)。ピアニカのロングトーンが奥から聞こえてくる。その後しばらく3人の奏者に目立った動きはない。このあいだ、江崎さんと木下さんは英和辞書でなにかを探している(素振り?)。最初に木下さんが、次に江崎さんが、英和辞書のなかのなにかの単語の意味を日本語で読む。その後、みつ君がまた奥からやってきてドアを閉める。しばらくして終了。ここでもみつ君は、ある時間/ある空間における、フレームならぬフレームのなかに私たちを導く。ここで起きる音楽の内容は私たち自身である。最後に木下さんの曲「relative speed : test 1」。相対的速度の実験その1。速度というひとつの単位は他の速度に依存している、というよりも、ある同じ状態/状況にあるふたつ以上のものごとの「比較」という作業(観測)なしには、そもそも速度じたいが存在しないということ。3人の奏者がそれぞれの速度で単音を発していく。ある距離を走ると(発音がある回数に達すると)停止するようになっているようで、まずはみつ君、次に木下さん、最後に江崎さん、の順で停止する。ある距離を走ると、と書いたように、なんとなく私は「速度」からクルマをイメージしていて、それも高速道路をイメージしていて、誰が登坂車線で誰が追い越し車線なんだろう、と思いながらみていた。どうやら途中で誰かが誰かを追い越したようで、つまり走行中に速度が変化したということで、人間なんだから厳密に一定の速度で走行するなんて無理で、とかいうよりも、厳密に速度を固定するなんて機械にやらせない限り無理で、現実世界ではそんなことふつうはありえない、っていう当たり前のことがなんとなく嬉しい。終了後、杉本拓さんと大谷能生さんによるインタビュー誌「赤目」を木下さんから購入。ちらっと読んで興味深いところがあったのでさりげなく木下さんに「出落ち」のはなしを振る。コンセプチュアルなものは文字通り概念を理解した時点で終了なわけで(と思われている?そういう習慣になっている?)、そういう事態を木下さんは「出落ち」と言っていて、そこをどうにか乗り越えたい、というのを木下さんと私はそれぞれにやりかたは違えど一生懸命やっている、たぶん。私の希望としては、いくら概念的(コンセプチュアル)な作品であっても、なんらかの質料(かたち)を伴わない限り(もちろんそれは物理的な質料を伴う必要もなく、たとえば、詩のような言語芸術とか、プログラムコードとか(ひょっとしてこれも「言語」芸術?!))、この世に存在しえないわけで、なんらかの質料(かたち)を伴う限り、それを経験する時間と空間が必要になる。その経験、すなわち、時間と空間において、経験は単一の概念から、複数の意味とか意義として定着していくわけで、それがひとつの希望なのではなかろうか。そしてそれを阻害する、様々ななにかについて、異議申し立てをしているわけで、ということは、私にとって、概念をあつかうのが必要なのでも、ひょっとしたら意味の生成が必要なのでもなく、経験そのものを阻害するなにか、を見定めたいだけで、その作業場として、芸術というものがあると思う。というようなことを、6月4日(水)の未明から6月5日(木)の未明にかけて本格的に寝たりちょっと寝たり冷やし中華を食べたりしながら書いて、その合間に、姉ちゃんのダイナブックだったかなんだったかそういう、なんだかゴツゴツしたかたちのノートパソコンで、映像の作業をやったりしていて、AVIをDVDにするときに画質が落ちる。どうもDVDにするには圧縮が避けられないようで、パソコンに入っているかんたんDVDメーカーみたいなソフトがこっそり勝手に圧縮するのが気に入らない。圧縮するならするで言え!確認しろ!と思う。いまヘッドフォンから流れているのは、キリンジ「休日ダイヤ」。「光の関切って路面を浸す 虹のようなものに体をあずけ 君と休日ダイヤで流す車窓から世界を眺めてみれば 「僕らはもうヨソ者じゃない!」 そんなふうに思ったりするよ」というふうに歌詞をタイプしているうちに曲は終わってしまった。