それとひとつ思うのは、デザインは明らかにひとつの専門技術であるけれど、アートとフィロソフィーは、専門技術ではない。いいかえれば、デザインは科学になりうるが、アートとフィロソフィーは科学になりえない、っていうこと?きのう寝ながら読んだジル・ドゥルーズ「記号と事件 1972-1990の対話」『Ⅳ 哲学「仲介者」パイこね変換』より

私にとって興味深いのは、芸術と科学と哲学の関係です。どれかひとつの分野が他の分野を支配するような特権をにぎることは絶対にありえない。それぞれの分野にそれぞれの創造があるからです。科学の真の目標は関数を創造することだし、芸術の真の目標は感覚世界の集合体を創造すること、そして哲学は概念の創造をめざす。そこを起点にして、概略的なものであってもかまわないから、とにかく大まかな項目を三つもうければ(関数、集合体、概念)、項目相互間の反響と共振の問題を定式化することができます。まったく違う線の上に置かれ、しかもまったく違うリズムと生産の運動にしたがっているにもかかわらず、概念と集合体と関数の出会いが成り立つのはどうしてなのか。

そして、いま、6/7の大和川レコード×米子匡司の昼の部、料理人と4人のアーティストによる映像カフェのための映像つくりをしていて(ちなみに6/7のはパンタロンのパフォーマンス月間の第一回で→http://www.pantaloon.org/exhi_PERF.html)フリーソフトとかダウンロードしてみたりしていて、とはいっても先週金曜日にぐっさんに手伝ってもらってとりあえずひとつの作業は終えていたけれど、なんとなく腑に落ちなかったので、改めて作業中。というのも実は姉ちゃんがつい2日前くらいにパソコンを買ったからで、最新のダイナブックだったかなんだったかそういうやつで、映像をどうこうしてDVDに焼くのも簡単そうだったから改めて作業してみる気になっただけで、とはいっても厳密に「映像」というものをつくっているわけでもなくて、とにかくひとつの目標として、「違和感」とか「対比」とかではなく、「透明」な感じで状況に馴染むような、つまり、あってもなくてもどうでもいい、ということで、とかいうとなんとなくなにかやりたいことがありそうな感じだけれども、たんに「どうしてもうまいことを言えない」「どうしても気の利いたことを言えない」という、自分の無能さをそのまま提出してみよう、ということで、これはなんとなく音箱展に提出した「へ」にも通じるものがあるなあとさっき思う。それと、なんらかの「選択」がなされた時点で、その影響も決定する、のではなくて、選択のあとの過程を経て、結果的に、事後的に、なんらかの影響が形づくられていたことを知る、ことしかできないのではなかろうか、と考えたい。よくよく考えると、なんらかの選択がなされた時点では、あまり何も変化は起きていない。変化が起きる、というか、起きていくのは、そのあとのような。あ、そういえば、徳井直さんは音源もいい感じですよー。→http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080602