音箱展。大和川レコードこと朝田君が来た。ちょろちょろはなす。熱心に鑑賞してくれていた女性とはなす。珍しく私がやってきたことも少しはなす。また来たいとのこと。熱心にひとつずつ見ていく人がかなり多い。車椅子のおじさんと、おじさんが持っていたオープンリールのテープレコーダーが震災で壊れて3つあるモーターの回転が合わなくなって粗大ゴミに出したらいつのまにか誰か持って行っていたはなしと、ネズミ避けの高周波を出す機械のはなしをする。豚玉定食を食べて戻ってきたら八木君が来ていた。けれどスーツを来ていたので顔を見るまで気付かず。Exhibition as media(メディアとしての展覧会)のときに手伝いなどして、会ってはいるのだけれど、憶えられていない、けれどそれも仕方ないしとくにどうということもない。八木君に私の箱がウケたのはすこし意外でもある。同い年なので勝手に「君」付け。八木君はいまICCで展示をしている。八木君の作品について「詩的」と二回も言ってしまったのはどうもよくなかったな。。もうちょっと違うアプローチの見方ができたはず。森本絵利さんとお初にお目にかかる。ルールは厳密であればあるほどよいし、描写は厳密であればあるほどよい。「厳密」さの孕むすっとぼけ感?岡田一郎さんと林敏之さんと藤川怜子さんと井上明彦さんにもお会いできたらと思う。昨日は河野あや子さんとお初にお目にかかる。河野さんの作品に触れながらいろいろはなしていると、繋がらないものを繋ぐ・連想・アナロジーについてはっとする。(今日の)展示終了後、はやしさんと六甲の彩々へ。(ローカルな歴史学としての?)民俗学のことなど興味深い。はやしさんには、日頃の感謝の気持ちも込めて、直嶋竹内平間小田コンピその1をプレゼントしていて、そういえば、昨日、「雨に拍手」について、僕は小田君から雨に拍手した音を録音したということを聞いたから面白いと思えたけど、そういう説明がなければ、分からないよ、ジャケにもそういう説明はないし、あと、ビジュアルやテキストがあれば複合的に感じとれるよね、という意見をもらって、はやしさんが言わんとすることは、雨に拍手しているという行為が、録音からは読み取りにくいよ、ということで、実にそうだ、と思った。タイトルの「雨に拍手」を実際の行為のことだと思わないかもしれないし。音そのものについていえば、雨と拍手の音がわざと混じるようにしてあって、もっと拍手の音を強調していれば、分かりにくいこともない。けれども、難しい判断ではある。雨と拍手の音をわざと混じるようにしたのは、どういう必要からなのだろうか。ぜんぜん分からんけど、いまひとつ思いつくのは、「それだけ」にしたくなかった、というか、ひとつの「意味」に固定したくなかった、というのがあるかもしれなくて、なんというか、常に複数の意味というか、「過剰」を孕ませたい、というのがあるかもしれない。ややこしいな。繰り返しになるけれども、「雨に拍手した」ということを分かりやすくするのなら、テキストで説明するよりも、単純に、拍手の音を強調していればなにも問題はなかったと思うけれど、なぜそれを私はしなかったのだろうか。なぞなぞゲームをしたいわけではないのに。あと、複合的にやってみる、ということについては、なんとなくあまり乗り気にはなれない。これも、なぜだろうか。ひとつの同じことを、いろんな複数のアプローチで指し示すのは、場合によっては興醒めになりかねないからだろうか。そして、今日、ヒマなときにぶらぶら展示会場を歩きながら思ったことは、私が「作り手」であるときは、ただ「ためらわない」ことだけを目指しているようで、といっても「ためらう」ことあってこその「ためらわない」であって、「ためらう」ことと「ためらわない」ことをひとつづつ測りながら、やっていて、前にも書いたけれど、特に伝えたいこととかもないというか、私があるものごとにおいて「ためらわない」ことで、現実にどういう変化が起きるだろう、というだけで、そのことでなにがしかの目的を果たしたいわけではないし、なにがしかの目的が果たせるとも思えない。視界のなかにいる誰かが転んだら、ああ、あのへんは危険だな、気を付けよう、とか思うだろうから、積極的に転びに行ってみよう、という感じか。