●馴れないこと。とにかく馴れないこと。飽きないこと。同じ石にいつも躓くこと。同じところをいつも怪我すること。●芸術活動は「作り手」と「作品」のふたつで完結していて、それを作者による完全なかたちで受け取るのが「受け手」である。ほんとに?この図式だけでいうと、もう、生産者と消費者でしかない。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20070723 ●「受け手」は面接官ではない。「自己PRは、具体例や体験談を交えつつ、分かりやすく簡潔に」「志望動機ははっきりと」、というのは、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」で言っていたことを思い出して思ったことで、その箇所を調べてみようと、まず岩波文庫の「ボードレール 他5篇」に入っている第2稿を見てみたけれど見当たらなくて、晶文社ヴァルター・ベンヤミン著作集2「複製技術時代の芸術」の第3稿を見てみると見つかって、この文章は死の直前までいろいろと変更されていたらしく、

芸術作品にたいする散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化の兆候として、芸術のあらゆる分野においていよいよ顕著に認められるようになったが、ほかならぬ映画こそ、その本来の実験機関なのである。映画は、ショック作用によって、この新しい芸術作品鑑賞形式に適応する。映画は、礼拝的価値をよせつけない。それは、単に映画が観客に審査員の姿勢をとらせるからだけではない。映画館内でのこの観客の審査の姿勢がいかなる精神の集中をも必要としない、という事情にも基づいているのだ。観客はいわば試験官である。だが、きわめて散漫な試験官である。

●「芸術作品・芸術活動」は「作り手(実制作者としての)」と「受け手(観客・批評家)」が「創り上げていく」ものだと思うのだけれど、その役割分担というか、お互いどういうふうに振舞うべきかのバランスが難しいというか、そんなバランスが果たして取れるのだろうか、といまの現状を見ると途方に暮れてしまうのだけれど、とにかく、「作り手(実制作者としての)」は受け手の理解不足・考え不足を嘆くだけ、「受け手(観客・批評家)」は作り手の努力不足・説明不足を嘆くだけ、などという不毛な状況だけはまずどうにかならないもんかと思う。だいたい「作り手と受け手」というふうに区別できるのはいったいどういう前提からなのか(みんな、作り手という「受け手」であり、受け手という「作り手」なのではないのか)。そしてその区別はどういう必要があってなされたものなのか。「作り手」が「作品」に込めた意味を「受け手」が受け取る、という図式が出てきたのはどういう必要からなのか。そしてそれが一般的になったのはどういう必要からなのか。それは、唯一の、芸術観、などでは、ない、のではないか。もしそれが変えられない/変えたくない/変える必要がない、のであれば、なんの技能も技術も持たない(持ちたくない)私がこの世界でなにかやる必要も、そもそも、ない。たぶん。静かに本を読みながら暮らした方がマシだ。「なにかやる」のなんて、面白くもないことばっかりだし。。言い過ぎだろうか。というか、この問題はとうの昔に解決済みでなんらかの暗黙の了解が存在していて、私だけがそれを理解できずにいるのだろうか。●実のところなにもかもすべてが「面白くない」のだけれど、「面白くない」のも面白くないので、面白くなくなくて、そうじゃないふうに面白くなくないひとはどういうふうにそう思えているのか不思議に思う。●「ほんと洋服のコーディネートとおんなじで、ひとつのトーン・ひとつの様式(スタイル)で統一されているものが、「作品」としてまとまっている作品なんだよね。受容するときの目印・標識がはっきりつけてある、という意味で。これはもう、意味付けしやすい、意識のフォーカスを合わせやすい、記憶しやすい、というメリットしかない。」●「まとも」な人間は、自分以外の人間のうち誰かを「まともでない」人間だと決めつけることで、「まとも」たりえている。自分を「まとも」であると思うことじたいが一種の暴力の上に成り立っている。その逆も同じ。