なんかいま、ドゥルーズのいう「集合と全体」っていう言い方が気になったのだけれど(翻訳の問題なのかもしれないけど)、すくなくともhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20080424のなかでおかしくなるところがあって、私は「「集合」とはある概念のまとまりとかそういう意味だと私は思って」いるけれど(もちろん数学としてというよりも比喩として)、だとしたら「集合と全体」っていうときの「集合」ってなんだろか、ということで、ああいや、「全体」をそのあいだだとするととりあえずこの文脈ではおかしくないのかな、いや、でもとにかくドゥルーズの言っている「集合と全体」は「部分集合と全体集合」のことなのかどうなのか。たぶんそうだろうけど、これはいったいなんだろう。「部分と全体」じゃだめなのか、と思ってみるけれども、ドゥルーズのいう「集合と全体」の文脈だと、全体に部分が含まれるというような意味合いじゃないから、こういう言い方になっているのだろうか。「全体」を、変化することそのもの=時間、とか、関係することそのものだと考えるのは面白いと思うけど、なら別に「集合」っていう必要もない気がする。。そういえば、福田恒存さんは「人間・この劇的なるもの」で

自分が部分としてとどまっていてこそ、はじめて全体が偲ばれる。私たちは全体を見ると同時に、部分としての限界を守らなければならない。あるいは、部分を部分として明確にとらえることによって、そのなかに全体を実感しなければならない。

といっているけれど、ここには「時間」の要素はない。「部分と全体」っていう区別じたいを変えないとこれ以上のことは言えない気もする。「部分と全体」+「時間(変化・ふるまい)」=「創発」とかいう方が簡単なのだろうか。ひとまず、こういうことを考え出した元々のきっかけに戻った方がいいなあ、たぶん。その元々をいまからさらっとメモしておくことにして、創作活動をするひとっていうのは、だいたいが個人主義というか、自分が最初から最後までやりたい、というところがあって、そういうのが影響するのかなんなのか、作品なりなんなりが完成した後のことに関わるのを嫌うというか、作品について語るのも嫌うし語られるのも嫌うようなところがある。少なくとも、作者は自分の作品が世に出てひとつの作品として動きだした後にはあまり積極的に関わらないし、自分の作品が自分以外のひとの手によって(解釈され)変化していくのを嫌う。作者は自分の作品に観客として関わりたがらない(「作者-観客」という仕組み上関われない?)一方で、観客の解釈を自分の意図通りに修正するために関わることもある。自分が創作したものを見るときに、作者という立場でなく、ひとりの観客としてひとつの解釈を提出する、という立場をとりうるのかどうかが気になるし、また、作者にとって自分の作品はあくまでひとつの完結した「全体」であって、観客にとっての誰かの作品は他の誰かの作品と組合せて解釈可能な「部分」でしかなくて、そういうことを作者は快く思わないのかもしれない(し、そのことに気を遣ってか観客は、他の誰かの作品と組合せて解釈可能な「部分」ではなくひとつの完結した「全体」として扱おうとする)、とも思っていて、だから部分と全体のはなしになる。でも、部分としての個人の作品が関わる全体とはなんぞや、ということになる。カテゴリーとしての「芸術」一般ではないだろうし、公共の芸術なんてものでもないだろうし、いったいなんなんだろうか。そこに時間=変化することを持ち込むのはいいような気がして、というよりも変化することにオープンであることに繋がるような気がして、また途中わけが分からなくなったけれども、結局は、変化にオープンでありたい、というただそれだけのことをいろいろに言いかえただけなのだろうか。。ドゥルーズ

集合が集合に特有の傾向を完全に実現するにいたるのをさまたげるのが、この全体にほかならない。つまり全体は、集合が完全に閉じてしまうのをさまたげるわけです。

というときの「全体」と福田恒存さんのいう「全体」はほぼ同じものであるようにも思える。あと、いま私が前提としている「作者」観ってものすごく古典的なものなんだろうなあ。でも、それが一般的なものだとも思えるけれど、どうなんだろう。