雑誌「真夜中」が気になる。http://www.littlemore.co.jp/magazines/mayonaka/ 保坂和志さんは「文芸誌」だといっていた。あと、もうひとつ村上春樹さんの小説に特徴があるとすれば、格言めいたものがやたら出てくるということで、おそらく格言とか箴言とかは、その内容ではなく、形式の方が重要っぽくて、つまり、言い方、どこでだれがだれに向かってどう言うか、が重要で、形式に比べたら内容はさほど問題ではないように思えて、と思うのは、格言とか箴言とかにおいては、形式の独創性に比べれば、内容の独創性など取るに足らないということで、当たり前のことをいかに新鮮に言うかということだと思えて、これは格言とか箴言に限らず、いろいろなものごとに拡張したくもなるけれど、ちょっと我慢することにして、なぜならこれはこれで形式として陳腐な気もするからで(またもう一方では、形式と内容という区別じたいがどうなのかというのもあるし、「形式と内容」なんていっても、結局はひとつながり・ひとまとまりのものなんじゃないかと思うし、これはたぶん、シニフィエ(意味しているもの)とシニフィアン(意味されているもの)の関係にも近くて、どっちがどっちとかどっちよりどっちかとかではなく、その区別じたいがどうなのかというのがあったりして)、つまるところ、みんな、他人のはなしなんてきいていなくて、他人のはなしで喚起された自分に向けた自分のはなしをきいているだけで、他人のはなしでなにかを思いついて自分が自分に向かってはなしをしているということで、はなす自分ときく自分の距離をどれだけ離せるかの試みが楽しいと思って、はなす自分ときく自分のあいだに距離があれば、いい間違いやきき間違いも生じるだろうし、はなす自分ときく自分のあいだがまったくなく、完全に重なり合っている状態だと、テレパシーのような感じになってしまって、ことばの良い側面がまったく発揮されなくなるような気がするし、http://d.hatena.ne.jp/k11/20080422ではいったい何をいいたいのかよく分からないし、「材料」っていうのはあまりに「部分」寄りな感じもするけれど、これはしょうがなくて、あまりに「全体」(これも実は擬似的な全体だけど)を重視する傾向が強いから、ひとまずこういうより他なくて、もう少し良い言い表し方を発見できたらいいなあと思うし、「全体」(これも実は擬似的な全体だけど)を重視する傾向、つまり「集合」は不変である、とついつい思いたくなる傾向のことで(「全体」と「集合」の混同)、「集合」とはある概念のまとまりとかそういう意味だと私は思っていて、人がつくるすべてのものはひとまずなにかしらの輪郭のある「かたち」を持つわけだけれど、輪郭があるということはその輪郭の大きさや形状や位置によってある概念の範囲を指定するということで、そういうのを「集合」=「かたち」(=「部分」)だと思っていて、とむかしからそう思っていたような素振りだけれど、これはついさっきはっきりしたことで(といっても、勘違いかもしれないけれども)、ジル・ドゥルーズ「記号と事件 1972-1990の対話」の『「運動イメージ」について』を歯医者さんの待ち時間に読んでいて、途中はいまひとつ分からない、というか、映画についての興味・問題を私がドゥルーズと共有できていないというだけだけれど、15時に予約した歯医者さんは銀歯をはめるだけなのですぐ終わって、そのあと歩いてオキムラコーヒーへ行き、東ティモールエチオピアを200gづついただいて、オキムラさんは4月30日でお店を閉めるらしく、非常に残念なことだけれど、なぜそれを残念に思うのか考えてみると美味しいコーヒー豆を近所で買えなくなる、という私の側の都合というか気持ちなので、オキムラさんに変化が起きることはそれじたい悪いことではなくて、むしろ良いことで、明日から陶器市の手伝いをしに2週間ほど実家に帰るので、来れるのが今日で最後だと分かるとオキムラさんは豆をプレゼントしてくれるとのことで、コロンビアを200gいただいて、感謝のことばを述べつつまたどこかで再会できたらいいですねと言いつつ、お店を後にして、帰る途中に小児科と内科の病院を発見したので、風邪というかのどの腫れをみてもらおうと思い、行ってみるも閉まっていて、休診は日曜と祝日なのになんで、と思ったら午後の診察は17時〜19時だったので、ひとまず家に戻り、音箱展のキャプション用のタイトルとかコメントとかを考えたりして、とこまごまとしたことを書いているとだんだん面倒臭くなってくるけれど、それはたぶんこれを読むひとも同じで、絶対こんなこまごまとしたことなんて読まないだろうなと思うし、なにより書いている私じしん面倒臭いし、でもこの面倒臭さには打ち勝たないといけないというか、少なくとも反発しないといけないと思うのだが、それも別になにか確固たる信念があるわけでもなく、なんとなくなのだけれど、たんに出来事と出来事のあいだには「あいだ」があるだろうよ、ということなのだけれど、おそらくその「あいだ」が「全体」で、ジル・ドゥルーズ「記号と事件 1972-1990の対話」『「運動イメージ」について』より

重要なのは集合と全体の区別です。このふたつを混同すると、「全体」はまったく意味をなさなくなるし、全集合の集合という有名な逆説におちいってしまうからです。個々の集合は多様きわまりない要素を結びつけることができます。しかし、それでもなお集合は閉じている。相対的に見て閉じられていたり、人為的に閉じられたりするわけです。「人為的に」閉じられると言わざるをえないのは、集合には本来一筋の糸があって、それがどんなに細くても、かならず当該の集合をより広範な集合に結びつけ、結局は集合が際限なくつながっていくことになるからです。全体のほうはまったく違う性質をもっている。時間の序列に属しているからです。全体はすべての集合を横断する。集合が集合に特有の傾向を完全に実現するにいたるのをさまたげるのが、この全体にほかならない。つまり全体は、集合が完全に閉じてしまうのをさまたげるわけです。ベルクソンはことあるごとに注意をうながしている。時間とは開放性であり、変化を繰り返すものだ。時々刻々と性質を変えていくのが時間なのだ、とね。

集合の時間性(全体性)をを無視して、それじたい完結したものだとみなすことは、「全集合の集合という有名な逆説」(閉じた集合同士がお互いの正当性を主張しあうだけのあれ?「人は人、自分は自分、人それぞれ」)を呼び込むことになって、袋小路に入り込む。これと同じことを言っているのが、バーバラ・M・スタフォード「ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識―」第一章『ポストモダン 類比の消滅』の

洗練されたアナロジー理論がないと、あるのは差異の否定弁証法ばかりで、行きつくところ同化のふりか、不動の我(アイデンティティ)への固執と引き篭もりかの、いずれにせよ突破不能の袋小路であって、意味あるコミュニケーションの生じる可能性はない。

私が「人それぞれ」という考え方が嫌いなのは→http://d.hatena.ne.jp/k11/20061028 それがスタフォードのいう「同化のふり」にしかならないからで、お互い尊重しているようにみえて、ぜんぜん受け入れていない、というような事態が生じる。つまり、否定的理解しか生じ得ないということで、それが存在することは認めるが理解しようとしない、ために、そこに「意味あるコミュニケーションの生じる可能性はない」し、そもそも「それが存在することを認める」だけでかなりの譲歩だし、それで十分でしょ、それ以上はムリ!というような雰囲気が一般的にはあるし、「人それぞれ」という考え方(の否定的理解の側面)には「同化のふり」と「不動の我(アイデンティティ)への固執と引き篭もり」が両方入ってしまっているような気がするし、あとは、「集合の並置」と「全体」の混同も避けなければいけないということで、「集合」が並置「できてしまうこと」は「全体」の観点から見れば当たり前のことで、「集合」が並置「できてしまうこと」それ自体やその条件をこそ問わないといけないだろうし、病院に行くと小児科と内科の病院なのでちびっこがたくさんいて、見ているだけで面白い。先生曰く、のどがかなり腫れてるねー、とのことで、木下さんがちょっと前にひいていた風邪と同じのかもしれないし、もらった薬は、オゼックス錠150と粉薬(シーサール散10%・トランサミン散50%・ビソルボン2%)とエンピナース・P 9,000とアプレース錠100mgとヒスポラン錠3mgとセスフラン錠75mgで、オゼックス錠150と粉薬(シーサール散10%・トランサミン散50%・ビソルボン2%)とエンピナース・P 9,000とアプレース錠100mgは毎食後、ヒスポラン錠3mgは朝食・夕食後で、セスフラン錠75mgは熱や頭痛がある時で、この薬の名前をいちいち書くっていうのはかなり面倒臭くて、これなんて明らかに読み飛ばされるだろうし、なにより私じしん読み返しながら読み飛ばした。