なつかしい。高校時代に聴いていたような。

Mr.Children - マシンガンをぶっ放せ

Mr.Children - mirror

というふうに、youtubeの映像をふたつ関連付けて引用するときになにが起きているのだろうと思って、表向きの意味は、「マシンガンをぶっ放せ」と「mirror」の(歌詞の)対比で現れるミスチルの(桜井和寿の?)二面性・両義性みたいなもの、なのかもしれないが、その裏に、ミスチルの(桜井和寿の?)二面性・両義性を取り上げるという行為そのものによって、自分の二面性・両義性について考えたい、暗に示したい、表現したい、みたいなこともなにやらありそうで、それだけじゃないとは思うけれども、なんかこういうのをだらだら続けていくのって、どうも情報のコレクションというよりも、情報のコンパイル(編集という意味での)っぽい気がする。編集するからには、なんらかの方針や意図があって、その方針や意図をぼんやりと(暗に)表現するために、断片の堆積が利用されるだけで、断片自体の意味や断片のあいだに生じる意味はあんまり関係ないというか。そういうふうになっちゃう編集の仕方というか。選択して寄せ集める、という意味での編集。自分の外にあったものの断片に自分を投影して、それらの断片を寄せ集めて、理想の(かりそめの?)自己イメージを作る努力?寄せ集めの対象としての断片に自分を投影できるのは、断片の選択の根拠としての理想の(かりそめの?)自己イメージそれ自体を自分の外から借りてきているからで、ズレをともなう同語反復でしかなくて、このズレがないとフィードバック(疑似無限ループ)は起きない。(たとえば計算結果を再代入し続ける数式をプログラムなんかで試してみると分かるのだけれど、数式それ自体に時間的なズレを生む構造を組み込まないと、スタックオーバーフロー(無限ループ)で、プログラム、というか、それを計算しているコンピュータ自体が止まってしまう)と得意気に書いてはいるけれど、たぶんそのままデリダ(ないしハイデガー存在論的差異?)が言っていることで、このズレを差延というのかしらと思うけれど、どんどんはなしが関係ない方に。というわけで、選択の癖に自分というものが鏡のように反映される(というのも一種の思い込みであるけれど)のであるならば、ソーシャルブックマークという現象によって、自分にとっての「情報(イメージ)の迷宮(ラビリンス)」を作り出すことは不可能なのではなかろうか。それは単なる(他人の?借り物の?)理想の「情報(イメージ)の持家(マイホーム)」なのではなかろうか(それの何が悪い!とも思えるけど)。また、音響現象としてのフィードバック、ハウリングが、何の加工・操作もしなければ、単純なピーッという音になっていくことも思い出される。と考えてはみたものの、他人のブックマークを貪欲に「まるごと」取り込んだり、相互に取り込み合ったりすれば、「情報(イメージ)の迷宮」を作り出すことは可能であるし、その迷宮を彷徨ううちに、アナロジーに乗ってコネクトしあうイメージの動きをつかめるようになるのかもしれない。でも、ものすごく単純なことだけれど、図書館や書店・古書店と、アマゾンは、どうしても違う。。図書館や書店・古書店では、自分の興味の外だけれど実は関係がある本(情報)を発見できたりするけれど(つまり、本(情報)を発見することで、関係を発見する。偶然による本(情報)の発見が先)、アマゾンでは自分の興味(検索ワードに象徴されるような)になんらかの「見えるかたち」で関係のあるもの、ないしは他人が関係付けた本(情報)しか発見できない。書名や著者名が分かっていれば、すぐ本(情報)はでてくるけど、自分の興味にまつわる広い範囲での本(情報)を探すときには、アマゾンというかネットは不便だ。本屋をうろうろするのとネットをうろうろするのでは、「偶然」に対する効率というかコストが違い過ぎる。と得意気に書いてはいるけれど、たぶん誰かが言っていることだろうし、実際にどっかで聞いたことがある気がする。。とにもかくにも、ブックマーク内の断片の共有や連鎖にはあまり生産性がないかもしれないけれど、ブックマークそのものの根本的な(構造的な?)相互の連鎖というか相互の陥入にはなにかありそうな気がする。twitterはつぶやきの共有みたいな感じだけれど、tumblrにそういうのはあるのかしら。どっちにしても二桁三桁の共有人数ではダメな気はする。自動で翻訳する機能とかあれば、言語の違いも関係なくつぶやきを共有できるだろうし。といっても、それを自分で体験したいとはあまり思ってないけど。。そんな落ちているもののほとんどがゴミかもしれない迷宮なんて恐ろしすぎるし、落ちているもののほとんどがゴミかもしれない状況でないと迷宮ですらない、ということが恐ろしすぎる。。というかこれって、松岡正剛さんのいう「イメージ迷宮」とはぜんぜん違う迷宮な気もするし、本屋をなんとなくブラブラするように、情報の迷宮をブラブラ彷徨うことは、できないし、できるようにならないような気もする。併置された情報をざっと適当に流し見るとか、できそうで結局できないような。本屋は情報それ自体がおとなしくしているけれど、情報の迷宮ではおとなしくしてなくて、よこから飛び出してきて襲いかかってきたりするから、と書いて、ああ、だから、その流れをテクノロジーの次元において自分の「選択」で制御する必要があったのかといまさらながら思ったりも、した。「そうしてまた朝日は昇る 話はこのヴァースの頭に戻る」
RIP Slyme - 黄昏サラウンド