受付終了は17:15で25分前に行って、灘区役所に行って、市民税と県民税を払う。「居る」「存在する」だけでお金がかかる、っていうのを実感。チャージか?灘図書館では、モーリス・ブランショ「来るべき書物」、佐々木正人/三嶋博之/松野孝一郎「アフォーダンス (複雑系の科学と現代思想)」、オクタビオ・パス「レヴィ=ストロ−ス,光と翳」の三つを持って、机に向かい、「レヴィ=ストロ−ス,光と翳」の第一章と、「アフォーダンス (複雑系の科学と現代思想)」の第二章の三者対談みたいなのの途中まで、読む。「レヴィ=ストロ−ス,光と翳」はけっこう面白いけど絶版の模様。「アフォーダンス (複雑系の科学と現代思想)」の第二章の三者対談はかなり面白くて、これは買おう。運動・動き・変化の原因を探る、すなわち、あるひとつの因果関係に視点を固定する、ことではなく、無数の視点を含んだ運動・動き・変化そのものを記述(表現)することは、どのようにしてなされるか。あと、吉村さんが本を自主出版したらしく→http://d.hatena.ne.jp/andsoon/20080418 ライヴ会場での販売のみとのことだけれど、地方発送も承るそうで、A5版というと新書サイズかな、読みやすそう。そして明日土曜日には京都アバンギルドの12K SHOW CASEにSamuraiJazzQuintetが。→http://www.cubicmusic.com/japanese/event.html あとものすごくどうでもいいけど、スシ王子の、スシ王子じたいは見てないけど、スシ王子の主人公の米寿司(まいず つかさ)という字面が(SamuraiJazzQuintetの)よなごっち(米子匡司)を思い出すし、というか「〜っち」というあだ名はまだアリなのか!?といま疑問に思ってしまったし、冨田ラボ「Shiplaunching」のジャケにあたかもクラシックの演奏家のように写っている外国人のみなさんになんか見覚えがあって、アンビリバボーとかの再現VTRなんかで見たことあるような気がして、ぜったい稲川素子事務所だ!と思って、「Shiplaunching」のブックレットにクレジットがないか見てみたけど、ない。けれど、諦めずに稲川素子事務所のホームぺージを見てみたら、明らかにジャケと同一人物と思われる男性をふたり発見。フランシス・ポルさんとジェリー・スパンさん。もう面倒くさいしそれはそれとしてどうでもいいからいちいち全員を照合してみたりはしないけど。それと、あさって日曜日にはこれが。

com+position 7


江崎將史 masafumi ezaki
木下和重 kazushige kinoshita
竹内光輝 mitsuteru takeuchi


2008. 4. 20. sun.
開場 15:00 開演 15:30
料金1,500円(1ドリンク付)


会場 chef d'oeuvre(シェ・ドゥーヴル)
http://www.kansai.com/gourmet/G0001047
大阪市西区阿波座1-9-12  tel. 06-6533-0770

松岡正剛さんの千夜千冊・遊蕩篇「『ヴィジュアル・アナロジー』バーバラ・スタフォード」(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1235.html)を読んで面白かったので、http://d.hatena.ne.jp/k11/20080415に書いた、「情報のコレクション」について少し先へ進める。松岡正剛さんは、「「つなぐ」(コネクティング)か、「組み合わせる」(コンビネーション)かの作用」を運んでくるものとして「アナロジー(「アナロギア・ミメーシス・パロディア」(類推・模倣・諧謔))」を挙げる。そしてその「アナロジー」の条件として、「まずは何かの物体やイメージを“そこ”に「もってくる」(コレクションする)」ことを挙げる。「なぜなら「コレクト」(収集)は必ずや「コネクト」(結節)を惹起するからだ。」さて、ここで同じ疑問。コレクトからコネクトを成し遂げるものは何か?また、(ウェブ)テクノロジーはコネクトを視野に含めた設計になっているのか?言い換えれば、逆にコネクトから人間を遠ざけるようなものになっていないか?上述した松岡正剛さんの文章中に挿入される「ヤン・ブリューゲルによる視覚寓意図」のように、コレクトからコネクトへの飛躍を果たすのは、(実/虚)空間(共時)的なモデルであって、日付がつけられて下から上へ更新される、地層のように情報が堆積していく時間(通時)的なモデルではないのではないか?情報/思考の「同時並存」による「創発」は時間(通時)的なモデルでは起こり得ないのではないか。となると、何が、何を、人々の欲望に供給しているのだろうか?といっても、厳密にいえば、コレクトからコネクトへの飛躍(創発)が起こるのは、いままでのコレクションに加え、無数の新たなコレクションが運び込まれながらも、それらをその都度すべて俯瞰することのできる視点があるからで、それは単なる、(実/虚)空間(共時)的なモデルでも時間(通時)的なモデルでも無理で、通時的共時態とでもいうようなモデルでないと記述(表現)できなくて、なんかこういうはなしは今日読んだ「アフォーダンス (複雑系の科学と現代思想)」の第二章の三者対談で松野孝一郎さんが内部観測に触れながら言っていたなあ。ああ、あと、すこし見方を変えてみることにして、ウェブテクノロジー自体はネットワークによって、(実/虚)空間(共時)的なモデルを実現している(ように見える?)けれど、まずそれらを俯瞰できる(とする)視点の設定がどうしても無理で、そうなると「ローカルな地域(個人も含む)」というすこし狭い範囲の中での「コネクト」と、「コネクト」の連鎖に希望を託すしかないと思うのだけれど、その「ローカルな地域(言い換えればそれぞれの個人)」での「コネクト」は、情報のコピーペーストじゃ起こり得なくて、なぜなら、伝言ゲームは、最初の人から最後の人まで、まったく間違わずに伝えられてしまったら、ゲームとして成り立たない、というかゲームとしてぜんぜん面白くないわけで、そもそも「コレクション」の「共有」と「コネクト」による「創発」は違う。ウェブ上での「つぶやき」が散乱していって、「つぶやき」間に思わぬつながり(コネクト)を生む(創発)、というのはもちろん後者。いままでをふまえて結論っぽいことがあるとすれば、「情報のコレクションと同時並存」を人間の頭のなかからひっぱり出して、「情報のコレクションと共有」としてテクノロジーを用いて実現しようとする観点がそもそも間違っている可能性があるということで、あとは、ソーシャルブックマークという現象が、自分の「お気に入り」という範囲のなかで流れる小さな情報の流れでしかないのであれば、つまり、情報の流れの幅のコントロールでしかないのならば、それはもはや情報のコレクトですらないのでは、ということ。うーん、でもやっぱり自分ひとりじゃよく分からないし、誰か!お願いします!と思うし、最終的にマウスをクリックするのもディスプレイを見るのも人間である以上、ソーシャルブックマークという現象に、なにかある可能性はなくならない。