yomayomaさんの「女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ」「[生活][一生のコミュニケーション][価値論]」→http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080401/p3へのコメント投稿にかえて。こんばんは、おだです。altaさんのおっしゃられる「パワーゲーム」は身にしみて分かります。あくまで「ゲーム」でなく「パワーゲーム」なんですよね。勝つか負けるか、生きるか死ぬかという。でも、わからなくても死にはしないよなあ、知らなくても死にはしないよなあ、たとえ自分の思う自分が死んだとしてもそれがどうだというんだろう、どんどん変わればいいだけだし、と思ったらちょっと考えが変わりました。http://d.hatena.ne.jp/k11/20080314で書いたのもそういうようなことで、抽象的なはなしや専門用語に反発するのはふつうの感覚でいうと当然だと思うんですが(そしてそれはどうなんだろうとも思うのですが。自分の反応がなぜ自分にとってただひとつのものだと思えるのか、という意味で)、そこではなしが抽象的であることそれ自体や専門用語を使うことそれ自体を批判するよりも(それはどういう目的でなされるんでしょうか。議論の筋をはっきりさせるため?それならなにかしら質問をしてみるはずですし)、いわゆる「論より詭弁」作戦でひっかきまわすとか、反発する自分の感覚をさらに自分に折り返して考えてみるとか、という方が、生産的というかよりベターな感じがします。権力性の問題もあるでしょうけれど、それと共に自尊心の問題だとも思っています。それらを意識しないとことばのゲームは成り立たないような気がします。「安心にリリースする必要」というのもよく分かります。私自身の実際の生活の態度に照らして考えてみるに、なんというか私は意識して「とっつきやすい人間」であろうと心掛けているようなところがあります。誰かが私に接したときの余計な不安は不要だと考えます。入り口で不安感を与えると入ってからの見え方にも影響を与えるというか。あと、「神話」であるとか「幻想」であるとか、そういう悪い意味で変に自然で変に単純明快すぎる解釈体系に頼らない「わかりやすさ」について考えたいとは思っていますが、それが私の表現にも現れているかどうかは分かりません。。そしてそれを「普遍性」などというと誤解を招きやすいですが、いまのところそういうよりほかありません。。あとぜんぜん関係ないですが、昨日ねっころがりながら読んだ、ジャック・マリタン「芸術家の責任」第三章「民衆のための芸術」で「表現の自由と芸術の自由が害毒を及ぼす危険に人間社会共同体が対処するための方策」を4つ述べたあとの一節より

結局のところ、ここで検討した種々様々な外的手段のなかでは、自由な議論と批評の果たす役割が一番自然である。なぜならこの場合、芸術活動が原因となって生じるような弊害を是正するものは、思想表現と芸術表現の自由にほかならないからである。ここで私が強調しておきたいことは、文芸批評家と創造的作家とが、実はふたつの異なった役割をもった同一の人格であるということである。<中略>かくして批評において、自由に、しかも理にかなった仕方で、芸術を論じ方向づけるのも、また芸術にほかならない。してみると批評には二重の機能があるということになる。第一に、作品を芸術と美的価値の上から評価することであり、第二に、作品に含まれる倫理的内容を人間社会共同体のためにはっきりと示すことである。

というところをほうほうと思いながらも、やりかたはどうあれ、糸井重里さんのいう「消費のクリエイティブ」を誘発できればいいんだよなあ、と思いました。生産が消費で終わるのではなく、消費が生産するというようなことかなあと思いました。というよりいまの時代、生産=お金を稼ぐことで、そのお金と引換えに何かを消費する、という感じですが、そういう消費がはたしてクリエイティブかというと、怪しいなあと。そういうようなことをhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20070723の後半でいっていたのかなあと思いました。と、「ジャック・マリタン 芸術家の責任」でググってみたところ、出てきた青木達也さんのブログの文章(http://anta-to-watashi-no.blogspot.com/2007/10/blog-post_28.html)がいいなあと思って

芸術は、自分を離れてしまったらできない。
芸術をやる動機は、あくまでも自分の中にあるからです。
だから作ることが出来るし、その意味を感じられる。
そのためには、自分を深く見つめていく必要がある。

ジャック・マリタンが「芸術の無償性」を倫理と引きつけて考えて、芸術家の責任逃れなのでは?と言っている(と私はこの本を読んで思った)のと、青木さんの「芸術は、自分を離れてしまったらできない」は呼応しているように感じられて、外に出したものをもういちど内に折り返さないと始まらないわけで、芸術の自由は作品にあるけれど、芸術の責任は芸術家にあるとかそういうことかなあと。あと「メタフィクション」とか「作者の死」とかにも関係するのだけれど、これらの弊害として、作者の雲隠れ、作者の逃亡、があるような気がして、けっきょく作者は死んでなんかいなくて観客の前に姿を現さないだけで、それがなぜかというと、観客の反応が恐いからだったりする、のではないかともちょっと思ったりする。つまり、「メタフィクション」とか「作者の死」とかは、作品それ自体の自由に向かわずに、作者(の自我?自尊心?)を守るような方向(責任逃れ)に向かう場合があるということで、危険だよなあと思う。そういうようなことをhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20070913でいっていたんだなあ、たぶん。