きのうときょうの出来事。Do Make Say Think「The Whole Story Of Glory」が出ますよ、いかがですか?予約しなくていいですか?というメールがアマゾンからくる。木村カエラさんのアルバムを試聴する。なーんか通して聴けなさそう、なんとなく。私にとっての「NIKKI」以前のくるりみたいに。山崎さんちにおじゃまする。いわゆる「寮」って感じがすごくよい。本をたくさんもらうし、廊下に置いてあるご自由にどうぞの本もいくつかもらう。やまだ紫しんきらり」がすごく面白かった。で、いまはなしことばで言うならば、すごい面白かった、と言うのだろうけれど、テレビのインタビューやらで「すごい〜だった」と言う人が多くて、でも画面下に出てくる字幕では、「すごく〜だった」と直されていたり、そのままだったり、するのが面白い。「しんきらり」はちょうど私の親の世代を描いたはなし。たぶん。山崎さんちには放送大学のテキストがたくさんあって、これがけっこう面白そうだと思った。音楽を(ひいては芸術を)言語的に(記号的に)把握しきることは可能なのかしら?というようなはなしから、「表現の物質性」すなわち「解釈の多様性」というところにいたり、といっても、あくまでも多様性は物質性のもと発揮されるのであって、多様性という抽象概念だけが一人歩きしたらいけないし、つまり、解釈する側の自由より解釈される側の自由を私は重視したくて、たまたま山崎さんちに行く前にそういうことを文字を書きながら考えていた。結論としては、ぜんたいを掴みたいのなら、言語的把握は不自由、部分的に範囲を絞るのなら可能、というようなそういうような、どうだったか。意識/無意識、という区別は正確ではないけれど、とりあえず分かりやすいので使うとして、私はどちらも言語で把握できると思うし、言語で直接にではなくとも、言語の影のようなものとか。それかもう言語で創作するよりほかないようにも思える。語りえないものは知りえないものであって、知るためには少なくとも語ろうとしなくてはいけない、ということ?あと音楽とか芸術は、無意識に、というより正確には、言語の外に、作用するっていうのは言語で考えない言い訳にしか使われてないし、言語しか考えるツールはない。そりゃひとことで言い表そうとしても、的からずれるだろうけど。だからいろんな人がいろいろ考えた結果を書き記すとき、あんなに膨大な文章を必要とするのだ、というようなことが、ヘーゲル精神現象学」の最初らへんをブックファーストで立読みしたら書いてあった。要約なんてできないから、読むという体験のなかで伝えたいと思います、みたいなことかしら。保坂和志さんも同じようなことを言っていたような。でもみんな「要は何?」って聞く。要、すなわち要点、注意点、意識のフォーカス、だけをあまりに重視するから、それ以外が「それ以外」として捨てられていくし、意識のフォーカスということならば、ぜんぶに当ててよ!と思う、「要は何?」って聞かれたときに。要点が欲しいっていうのは、やっぱり、すぐ分かりたいとか、分からないといけない、とかいうのに追い立てられて、解釈の糸口が欲しいとか、そういうことだと思うし、あとは、点が分かれば面も分かる、とか、部分から全体が構成できる、と思っているからなのか。点は点だし面は面なのだろうよ。。何かをみて、自分のなかに生まれた印象を、そんなに急いで次の表現にしなくとも、しばらくもてあそんでいたらいいんじゃないかしら。私はそれについてなにかことばにしたあとでもずっともてあそびます。それでまた書いていたらたまたま関連しだしたyomayomaさんの「[生活][一生のコミュニケーション][価値論]」→http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080401/p3 「わかる/わからない」を量的なものではなくて質的なものだと考えるとわかりやすいというか気が楽になると思いました。私たちは「わかる/わからない」を意識しすぎてびびっているので、発想をいろいろ変えてみないといけないのかもしれません。歯医者に行く。またもやココアバターをくちびるに塗られる。ビタミンが足りていないんじゃない?ごはんとかどうしてるの?という疑いを持たれる。先生が貸してくれた前田嘉則「文学の救ひ―福田恒存の言説と行為と」を持ってくるのを忘れたのを待合室で待っているあいだ思い出すけれども、15時に間に合うように急いで行って途中で15時半だったと気付いてブックファーストで時間をつぶしているあいだに思い出せばよかった。