今日は昨日より早起きしてしまって、早起きしてしまったのは、おなかがいたかったからで、気付いたら横になるというよりうずくまるように布団の上にいたからで、なんかはらいたいなと思いながら、ごまかしごまかし寝続けようとしたけれども、結局はトイレに行くことにして、便座に座ったはいいもののおなら以外に出るものはなく、すごすごと痛いおなかを抱えつつ自室に戻って横になろうとしたところで、出そうな気がしたのでまたトイレに引き返して、3、4回下痢が続いて、これはばあちゃんがかかったみたいなウイルスか、と思いつつ、ちょっと吐き気もあったりして、小倉さん、ほか、を見ながらじいっとしていても特に良くなるわけもなく、小倉さん、ほか、の番組が終わり、桂南光さん、ほか、が出てきたあたりでちょっとましになったので、ポカリスエットとかあとおかゆとかそういうおなかに優しい食べ物を買いに行こうと思い立ち、コンビニでもいいけどコンビニはペットボトルの飲料がコープに比べてぜんぜん値段が違うので、コープに行くことにして、コープでポカリスエットとお吸い物仕立のうどんというのを買って、コープに行く途中にでぶっちょで声をかけたら返してくる気さくな三毛猫を見て、コープから帰る途中にいつのまにかこのあたりに住みついていまはたぶん三毛猫と一緒に飼われているっぽい目つきの鋭い茶色のトラ猫を見て、帰ってからポカリを飲んですこし休んでいたらだんだん良くなってきたので、洗い物と洗濯をし、洗濯はコープに行くまえに回しておいたのだけれど、コーヒーをいれて、今週の豆はなんだったか、さっぱり忘れたが、どこか中南米だったような気がするが、コーヒーを飲みつつ、なぜか冷蔵庫に入っていた賞味期限が昨日までの堂島ロールを食べて(だから洗い場というかシンクというかにフォークがあって、たぶん姉ちゃんが朝飯に食べていったのだろうし、箱から引っ張り出した堂島ロールは三分の二くらい残っていて)、今日は宇多田ヒカルのニューアルバムの発売日で明日はキリンジのニューアルバムの発売日で、といってもたぶんキリンジのしか買わないけど、あさってに迫ったKAVCでのちょっとしたお手伝いのスタートに備えて、いつのまにかやめていた腕立てと腹筋を再開したのは、先週の土曜日くらいからで、といってもいくら頑張ったところで筋肉なんてつかないのが面白くて、たぶんタンパク質とかが足らないのだと思うけれど、かといって筋肉をつけたいわけでもないが、体力はつけたい。昨日はぐっさんと「第十一回視聴覚文化研究会」の山崎さんの発表を聞きに行って、14:15からの山崎さんの発表しか聞かなかったのは、11時から始まる1人目の発表に間に合うように動くのがしんどかったから、と動けるのだろうか、という思いと、山崎さんの発表を聞いて次の人の発表を聞かずに帰ってしまったのは、せっかくほとんど来る機会のない京都に来たのだから、モリカゲシャツとかメディアショップとか見たいと思ったからで、山崎さんの「恩田晃《カセット・メモリーズ》研究」の発表の質疑応答みたいなので「これは学としてどうなの?」「論拠をはっきりさせてほしい。参考文献の信憑性は?」「恩田晃を研究したところで学としてはとくに意味はない」「いやいや、実践者の理論として面白い。メディア論としてなら広がりが持てるはず」というような意見があったりして、全体の雰囲気は、学としては認められにくい(慣習的に?)し、認められない、というもののようで、こういうやり取りを見ていると、なんかやっぱり私にも、「学なるもの」っていったい何なんだろうなあ、という違和感が生まれてきてしまうのだけれど、「学なるもの」もそういうカテゴリー(範疇)での一種の自己表現・一種のゲームなのかもしれないと考えると、わりとポジティブな感じでとりあえず納得がいく。とかいうのはほんとはどうでもよくて、私にどうこういえるものでもないし、いってるけども、山崎さんの発表のポイントは山崎さん自身が示した、パーソナル-パブリック、ドキュメント- フィクション、の4項の絡まりあいにあって、カセットという記録媒体(複製技術)と人間のあいだに起こる、記録と記憶(過去を想起すること)とのせめぎあいみたいなところになにかしらの意義があるように思えた。記録と記憶ということは時間ということにも触れることになるし。また詳しくはなしを聞かせてもらおう。さっきまで、げっぷをすると昨日たべた餃子の王将のチャーハンの臭いが上がってきて、まだ消化されてないんだなあ、と思っていたが、それもなくなったので、ただの下痢なのかもしれなくて、先週日曜日に三宮のジュンク堂で買ったブルーノ・ムナーリ「芸術家とデザイナー」が面白くて、「モノからモノが生まれる」も面白いけど、デザインについて考えれば芸術についても分かるし芸術について考えればデザインについても分かるということのようで、ムナーリのいう純粋芸術家がいまでいう芸術家で、応用芸術家がいまでいうデザイナーで、デザイナーはいまでいうディレクターとかプロデューサーとかなのだろうか。いまはもう完全に分断されていて。先日引用した原研哉さんの文章も同じようなことを言っているのかもしれない(http://d.hatena.ne.jp/k11/20080214)。ムナーリは、デザイナー個人に独自の様式は必要ない、というようなこと言っていて(と同時に芸術家が個人の独自な様式にこだわりすぎることを揶揄しているようにもみえる。たしかに、商品としての芸術作品を生産する職業、としての芸術家にこれを避ける術はないように思える。発表と発売が混ざり合っているいまではなおさらそうなのだろうか。ムナーリは「商業純粋芸術」ということばでこのことを指し示している)、これはほんとにそうだと思うし、デザイナーは美しいものを作るのではなく、美しい問題解決法を提示するだけであって、それで結果的に美しいものが生じる、というようなこともムナーリは言っていて(いや、渡邊二郎「芸術の哲学」だったかも。「生と世界内存在の真実が開示される場こそが芸術作品であり、その輝き(シャイネン)と現出(エルシャイネン)の結果が美(シェーン)となるのではないのか。」(シャイネンとエルシャイネンがシェーン?なんか特撮ヒーローっぽいけれども))、いまの私が思う芸術家は、実用的でない(つまり目に見えない)けれども人間の精神にとって無用ではない問題の美しい解決法を提示するという意味で、デザイナーに近いようにも思った。目とか耳とか鼻とかそういう感覚の楽しみ、としての芸術と、自己主張のツール(とそれに伴う単なるコミュニケーションのツール)、としての芸術と、実用的でない(つまり目に見えない)けれども人間の精神にとって無用ではない問題の美しい解決法の提示、としての芸術とが、混ざりあったままこのままいく方がいいのか、いったんそれぞれ分離した方がいいのか、そのへんはよく分からない…。し、ブックファーストで立ち読みしたサウンドアンドレコーディングマガジンでコーネリアスのリミックスコンテストみたいなのの佳作に金子由布樹君が選ばれていておめでとうございます。で、ディスクファーストで買ったキリンジ「7」のブックレットやら裏ジャケやらの曲名のフォントが漢字とひらがなで違うのが気になって、それも漢字が太くひらがなが細いのが気になって、「朝焼けはのきざし」とか「今日誰かの誕生日」とか「この部屋へ」みたいな感じで、といっても「今日誰かの誕生日」の「誰かの誕生日」の「かの」は細くない。なぜだろう。