逸口香を食べてコーヒーも飲んだので、書き始めることにして、逸口香についてはこちらをどうぞ→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%8F%A3%E9%A6%99 ちょっとお先においとました会場のシェ・ドゥーヴルからJR大阪駅まで一緒だった、主に恩田晃研究をしていらっしゃる山崎さんと電車のなかで、リュック・フェラーリ、恩田晃、すこしジョン・ケージ。フィールド・レコーディングという概念の両義性についてすこし。これがなにかひとつの音楽のジャンルや手法を指すものでないことは言うまでもないし、そのまま直訳すればそれでよいし、これが「音楽」かどうかも知ったことではなくて、対象に対するそれぞれの姿勢の違いしかない。という話はしてないけれど、「フィールド・レコーディング」でちょっと思い出しただけ。山崎さんとのはなしはとても面白くて、なんというか人のはなしをよく聞こうとする人だなあと思った。なんとなく。いまibookのヘッドフォンプラグに繋がれたヘッドフォンからはキリンジの「君のことだよ」が流れている。こういってはなんだけれども、音楽としての音楽で私に必要なのは、Jポップだけのような気もする。むかしからそういう気はしていた。どうなんだろうか。そうなんだろうか。キリンジと□□□と冨田ラボおおはた雄一クラムボンハルカリとママレイドラグとサニーデイサービスとリップスライムスピッツとバードと一十三十一木下美紗都シュガーベイブ宇多田ヒカルミスチルと…。いろいろ。さて、忘れないうちにささっとメモすることにして、com+position6は、みつ君の曲「はなればなれに」(だったか…、ちょっとうろ覚えだ、あとでコムポジwebで確認しよう)、江崎さんの曲「   」(忘れた…、なにか草の名前で、草の名前シリーズですねー、というはなしをした記憶がある)、木下さんの曲「    」(忘れた…、というか、曲名とちょっとした解説およびちょっとした観客への指示をプリントした紙が配られたので覚えようとしなくて、その紙はいま二階の自室にあって、これを書いているのは一階のリビングで、それを取りに行こうかどうしようか面倒くさいと書いてみたものの、どうせ取りに行くんだろうというか最初から取りに行くつもりだけれども、それならなぜまだキーボードをタイプし続けているのかというと、普通ならそんなこといちいち書かないということを書いてみたらなんか発見があるかもしれない、というよりも、単に文字数をかせぐためかもしれないが、そうこうしているうちに早く取りに行かないと、最初は取りに行くつもりだったのに、だんだん面倒くさくなって取りに行かないなんてことにもなりかねないので、いったん休憩。itunesを「グッデイ・グッバイ」のイントロ付近でとめる。と書いていたらうたが始まってしまう。ituneと書いていたのでsを足す。まだダラダラしている。帰りに梅田の紀伊国屋にすこし寄ったら中原昌也さんの「ニートピア2010」という短編集が出ていた。買おう。なんかこの人の文章は小島信夫さんと同じような読みしんどさ(読みにくさではなく)があって、いつでも気軽に読めるなんてものではないけれども、面白いので、いつものように、買っておいたらいつか読むだろう。そういや小島信夫各務原・名古屋・国立」はかなり前にちょっと読みかけて結局しんどくてやめていた。なんか分からんけど入り込むまでがしんどいのか、でもずーっとしんどいような気もする。いま紙を取って来た。ついでに□□□「snowflake」も取って来た。ヘッドフォンを耳に当てる。というかかぶるというのか。そしてitunesの再生ボタンをカーソルで押すだろうけれども、そういうことまでいちいち書いていたら本当にきりがなくて、そういうきりのなさには、やはりなにかしらの希望がある。きりがないということはいいことだ。ちょっと迷って曲名は先に書いた「」のなかにではなくこっちといってもどこなのかよくわからないけど、いまから書く。木下和重「earsight from window music2-」)、最後にManfred Werder「stuck 2004 3」。いまヘッドフォンからはキリンジ「You and Me」が流れている。youtubeから。「あぁ 君と僕には ねぇ 黙り込むよりも 素敵な道があるさ」こういうことを書くから、センチメンタルそのもの、センチメンタルの権化みたい、みたいなことを言われるのだ。センチメンタルそのもの、センチメンタルそれ自体、としての私、っていったいなんなのだろう。いまヘッドフォンからは一十三十一「Weather Report」が流れている。youtubeから。「長引く風邪は 君のせいだ 指名手配 光るハイウェイ FMから ウェザーリポート」みつ君の曲では、みつ君はフルートとあとなにか火の用心〜と言いながらカコーンと鳴らすアレの角を取って丸くしたみたいなやつをたまにカツーンと鳴らしていた。タイトル通りに3人が距離を取って離れて座っていて(もちろん会場の形状の制約もあるけれども)、江崎さんだけ奥のギャラリースペースにいて木下さんみつ君の2人と江崎さんで観客を挟む感じ。どんな音楽だったのかそのかたちをことばで記述するのは不可能なので、書けないけれども、あとでスコアを見せてもらうとものすごく単純なことばのみの指示でしかもそんなに具体的ではない指示で、なんというかそういうふうに音楽を立ち上げることの面白さを感じた。五線譜や図形楽譜ではない「ことば」の記譜だからこそできることがありそうだなあ、ということをはじめて思った。ものすごく少ない指示から多くの出来事が生じる。みつ君が渡した石を思い思いに池に投げる3人と、その石がつくる水紋をみんなでぼーっとみる感じか。江崎さんの曲は久しぶりにマークシートふう楽譜による曲、だったと思う。リズミカルにパターンが音で表現される。草の名前シリーズということは、その名前をマークシートで書いたりとかしているのだろうか。ということは特に聞かなかったし、あまり聞こうとも思わなかったけれど。前にも書いたけれど、なにかみょうに視覚的にパターンが見えるのが面白い、というか、なんかとにかくそういう法則があるらしい、そしてそれにひたすら沿っている3人がいる、というのがなにか面白い。ムーディ勝山さんを初めてテレビで見たのはたしか「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」の「山ー1グランプリ」で、「右から来たものを左へ受け流すの歌」を唄っていて、浜ちゃんが、なにがやねん!(どういうものが右から来るのか?)、だからなにがやねん!とやたらに突っ込んでいて、浜ちゃんの突っ込みにつられて爆笑したのだが、そういうなにかわからんけどなにかあるらしく、なにがやねん!という面白さがあるような気がする。ちょっと前にその動画をyoutubeで見たなあと思い出して探してみたが発見できなくて、しかたなく今年のガキの使い新年会をひとしきり見てしまって、その関連動画でなぜか紹介されていたこういう動画を発見して(http://jp.youtube.com/watch?v=VUJiLPW7fZI)いったいこれはなんなのだろうと思うけれど、私がこうやって文字で書いているようなことを動画でやっているだけかもしれなくて、それはそうと、うっすら後ろで聴こえるやたら陽気な音楽が気になるし、このソファがカリモク60のロビーチェア3シーターモケットグリーンというのも気になる。木下さんの曲は前回の「window music」同様、奏者の動作は楽器を構える-構え終わるだけで、そのふたつの動作でひとつの出来事として時間を区切る。途中、木下さんが弓をバイオリンに当てる位置を変えたのが面白かった。それだけでまた違う出来事なのだ。あと、江崎さんが構えるとき、トランペットに口が当たっていなかったのもなんか面白かった。それじゃどっちにしても音は出ませんよー、という。今回の曲が前回と違うのは、奏者が室内にいること、15分の演奏だと最初に言ったうえで、はんぶんくらい経ったときに木下さんの合図で観客が後ろを向くこと(観客から奏者を見えなくすること)、のふたつで、私は前半の奏者の動作を見ているから、後半に奏者が見えなくなっても、前半と同じ「ような」ことが行われているのだろう、いやぜんぜん関係ないことが起きているかもしれない、あんなことやこんなことが…、とかいうふうに推測する。また後ろ向きになって見える室内と繋がったものとして、奏者の方(奏者の動作)も空間的に意識(推測)する。ここには時間(と空間)が生まれる際の構造が現われていて、私は以前、過去を想起できることから時間が生まれるのではないか、と書いたけれど、過去を想起できる(憶えていてそれを再生できる)から現在を支点に未来へも意識が伸びていくということで、これは木村敏さんも「時間と自己」のなかで言っていて、最近読んでびっくりして、まあ、むかしのいろんな人も言っていることだと思うけれど、私たちはその都度の現在(いま)を支点に未来へと意識を伸ばしていく、それが時間(と空間)を生きるということで、そういうなにやら思考のシンクロのようなものを感じた。量(もの)としての時間(空間)の計測・観測からしか質(こと)としての時間(空間)も現われないというところも。Manfred Werderの曲は、前半イスから立っていたみつ君が途中から座ったことや、木下さんが冒頭で一音だけロングトーンを発したしばらくあとでヴァイオリンをケースに片付けてしまったことや、江崎さんが後半(といっても演奏時間が指定してあるわけではなさそうなので、結果的に後半であった、というだけで)に1、2音しか発しなかったことや、そろそろ終わり?という顔でふたりを見ていた江崎さんが、ふたりが楽器を置いているのを見て自分も置いて、しばらくして演奏終了になったことなどが印象に残っている。あとで楽譜を見せてもらったが、みつ君の楽譜よりさらにシンプルなことばだけのもので、しかも楽器を置くなんてことはぜんぜん指示になくて、作曲でも即興でもない自発的な出来事の発生がみつ君のそれとはまた違ったふうに起きている。と、ここでなんとなく文章が終わりっぽいので終わりにする。「それ自身のために。シンプルに。」という指示(句?)がたしかManfredの楽譜にはあったような。違ったかな。詩の「ような」というよりも、詩「として」の音楽なのか、詩「という」音楽なのか。行き帰りの電車で読んだのは、カール・マルクス「賃金・価格および利潤」より

ある品物を自分自身の直接的使用のために、それを自分自身で消費するために、生産する人は、生産物は作るが商品は作らない。自給自足の生産者としては、彼はなんら社会と関係しない。ところが商品を生産するためには、ひとは、何らかの社会的欲求を充たす品物を生産せねばならぬばかりでなく、彼の労働そのものが、社会によって支出される総労働量の一部分をなさねばならない。それは社会内の分業に従属しておらねばならない。それは他の諸分業なしには無意義であり、またそれ自身、他の諸分業を補足することを要求されている。

社会と関わることと「商品」化は同時に起こる現象なのかしら。たいていは混同されているようだ。同じことだとは思えないけども。かといって社会と関わることと「商品」化が切り離せるとも思わないけれども。たぶん、「商品」でなくとも欲求を充たしさえすればよいのだ、たぶん。欲求についての欲求というものがあるかもしれない。「またそれ自身、他の諸分業を補足することを要求されている。」というところにもなにかありそうな気がする。どっちみち部分なのだ。でも始まりとしての部分か、終わりとしての部分かの違いはあるような気がする。氷山の一角かただ浮いている流氷か。

http://d.hatena.ne.jp/k11/20070723がちょっと関係ありそう。

■A

いまよくよく周りを見渡してみると

貨幣と名声の交換の場に入ることが生産者として一人前の証であり

そこでつくったものの価値を厳しく問われることが

つくったものの価値に直結すると言われています。

そのように作り手と受け手という関係が

生産者と消費者という貨幣交換の場として成立する限り

そこに諸々の権利、義務、倫理が発生するのは当然でしょう。