今日やること。・洗濯・散髪・高速バスの支払い・明日とその先の準備 洗濯は終了。次は散髪か。冬は長い方があったかいというのもあって、8ヶ月くらい放置しているけれども、いつかは切らないといけない!ならば明日でもいいじゃない!と昨日思った。寒かったらぼうしをかぶればいいだけだ。散髪と高速バスの支払い終了。追加の買い物も終了。あとはゴロゴロに着替えを詰める。今回はゴロゴロで。散髪はいつも担当の美容師さんに100%おまかせしていて、長さだけは相談したり限界まで短くしてとか言ったりするのだけれども、今日もおまかせで毛玉のはなしとか二日分の毛玉は一日分の毛玉より大きいはなしとかをしつつ楽しく切ってもらっていたらば、それがなんらかのインスピレーションを美容師さんに与えたらしく、わりとエキセントリックな髪型になる。いままでが昭和だとするといまは平成で、いままでが曽我部恵一さんだとするといまは堂本剛さんかもしれないが、そのくらいの急な変化かもしれないというだけであって、といっても3回目くらいの治療のとき女医さんに小田君は平成じゃないね、昭和だね、と言われた。髪が長くてフォークシンガーみたいだから。といっても切らなかっただけで伸ばしていたわけではないけれども、切らないと伸びるのは自然の摂理なのだろうか。鏡をふたつ使って、右側から見るとなんとなくトム・ヨークを彷彿とさせ、左側から見るとまあ普通のかんじ。そういうかんじ。短いとドライヤーで乾かさなくていいからいい。


原研哉「デザインのデザイン」「第八章 デザインの領域を再配置する」より

「デザイン」は日本の社会の中ではなぜか表層的なサービスにとどまりがちで、常に相応しい機能とポジションを主張していかないとその力を発揮する場所が得られずうまく機能しない。また、社会におけるデザインの役割やポジションは、それを問われないまま放置すると、職能の反復によって一定の場所に凝り固まって動かなくなる。

いずれにしても、デザイナーは分断されパッケージ化されたデザインを供給する職能ではない。もしもそういう錯覚が社会に発生しているとするならば、僕らはそれを払拭しなくてはいけない。当然のことだが、あらゆるコミュニケーション、あらゆるメディアにデザインは有効である。コミュニケーションに関与するデザイナーの仕事は、物事の本質を把握し、それに相応しい情報の形を与え、最適なメディアを通してそれらを社会に還流させていくことである。

原さんは「もしもそういう錯覚が社会に発生しているとするならば」といちおうクッションを置いておられるけれども、私たちは実際にそう錯覚しているし、3年くらいだけれどそういう現場に関わった私の実感でいえば、個々のケース、それぞれの「情報」のジャンル別に存在する、過去の蓄積による「類型・らしさ」(前例?)がまずあって、それに自分の「個性」をそっと忍ばせるのが「デザイナー」の「デザイン」だということになっている。ルーティンワークに自分の「個性」を忍ばせるのが「デザイナー」であると。あらゆる「類型・らしさ」のパターンを可能な限り大量に習得しそれの創造的な組み換えをするのが「デザイナー」であると。といっても、ほとんどのデザイナーはそうせざるを得ない状況だと思うし、スーパーのチラシはスーパーのチラシらしくないとおかしいし、化粧品のパッケージは化粧品のパッケージらしくないとおかしいし、デジカメはデジカメらしくないとおかしいし、美術館は美術館らしくないとおかしい。あらゆる「情報」にはその「情報」につきまとう「らしさ」(通念)がある。そして、「情報」(の「らしさ」)を根本から再編集(配置)するこころみは(利益のための)膨大な物量に押し流されてしまい、結局は、過去の蓄積による「類型・〜らしさ」の無限のバリエーションを、マウスを持って「手仕事」で作り続けなければならないという堂々巡り。そしてそこで「デザイナー」としての誇りを保つための苦肉の策が「バリエーション」自体に自分の「個性」を託すことである、というと一種の悲劇のように聞こえるけれども、逆にいえば、ほとんどのデザイナーがこういう状況に乗っかってしまって、デザインの「常に相応しい機能とポジションを主張」するだけの認識を(わざと?)見落としているからでもなかろうか、というのは引用した箇所の前後などで原さんが(暗に?)言っていることで、とあたかも原さんが言ったようにしてみる。ともかくデザインは「絵面(かたち)」である、デザインは「絵面(かたち)」で完結する(できる)ものだ、みたいな思い込みは場所や年齢や職業を問わず意外とどこにでもあるなあといつも思います。あと「デザイン」に「デザイナー」の個性は要らないし、「情報」に「個性」を与えるというよりも、「情報」の「個性」を引き出す(置き場所を考える)ことに徹するのが「デザイン」ではないかと思ったりもします。私は「デザイナー」ではないですが、そういうことをたまに考えたりもします。でも「ルーティンワーク・堂々巡り」の錬金術から逃れる術などはさっぱり思い付きません。たとえ「デザイナー」と「オペレーター」と区別してみたところで、なんにもこれっぽっちもやることは変わってないですし。だから私はそんな錬金術には付き合いきれん!具体的なパターンの習得よりもなんらかの原理について考える方が結局は近道なのでは、とか思ったわけですが、そういうふうに書くとなにやらかっこいいのでムカつくし、いまはただの無職でしかないのが、まあまあいいなあと思います。