yomayomaさんの「女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ」
「2008-02-11 [交通]釣りごろ釣られごろというほのめかし」コメント欄より。
http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080211/p1#c

「モノを作ること」の免許制の含みは、例えば上記itaitteiさんが仰るところ
>窃盗罪という構成要件自体が、デジタル情報の複写が容易になった時代に対応していないと言う問題
というように、こういう事態事例に対する、現行の法律の有効性、あるいは法的規範のそれが実際的に脅かされていると考えられる時に、「モノを作る」ことに対する、一般的な敬意や、従来からの道徳的な主張を無邪気にふりかざして、それらに対する蹂躙を訴えても、どうしようもない、ということです。


端的に(デジタル)技術(またはその有効性)は人間のどんなものであれ規範(その有効性)と原理的に関係しようがないからです。


上記拙エントリは、とにかく色々こんがらがっている契機をばらばらにする必要があるんじゃないかと思ったところを、あらわしたものですが、わかりにくかったらごめんなさい。筆者の力量不足です。ただ強調したいのはポイントが多岐にわたるものだということと、それらがそれぞれに大きな問題を抱えていて複雑に関係的であるということ、それからそれらをごっちゃにするとどうにもならないかもしれないということです。特別新しい意見だとは思いません。
更に大きくみれば、新しい規範、コンセンサスの成立や啓発的な議論活動の可能ということにもなるでしょうし。


その上で今、留保的に感想として述べますところは、表現する自由というのはそれと同じぐらいの責任を要求されるのじゃないか、ということです。そしてそれはとにかく困難だということです。

あと、「「表現一般」の免許」について考えることは、「表現一般」を執り行う自分の「つもり」(欲望)について考えることに繋がるということで、「表現一般」の使用(利用)目的別にそれぞれ権利の範囲を指定しようと思えば、どうしても自分の「つもり」(欲望)のことについて考えなければならないということ。いやいや、これは趣味でやっていて…という人は「私用」で、その人以外にはどんな権利も認めない、とか。もちろんそれを売って金銭を得ることは禁止。細かくやれば、「閲覧」可/不可、「批評」可/不可、とか。自分の好きな事で食っていくんだ!という人はもちろん「商用」で、それには売買の権利が含まれる。自分の作品を世に問うてみたいし、できれば金銭での評価も欲しい…、という人もとりあえず「商用」。金銭での評価を望む限り、嫌でも売買の論理に従うことが前提だから。なにかしらみなさまのお役に立てば…という人は「公用」。ボランティアだから。金銭での評価は禁止されるけれど、賞賛は得られるかもしれない。ともかくも、こういう思考実験そのものが大事なのではなくて、表現する責任には、「表現一般」を執り行う自分の「つもり」(欲望)について考えること、が含まれるということ。当たり前だけれども。曖昧な「つもり」のまま行為を先行させるのも良し悪しあるよねー、ということ。といっても、明確な「つもり」の実現のために無駄のない手段を選び無駄なく遂行する、だけなのなら、ここの文脈でいう狭義の「表現一般」でなくてもできるので、ネクタイをしめてビジネスマンや政治家や役人なんかになった方が、そういう方向性での世のため人のためかもしれないよ、ということ。しかし、このことを大学生のときの自分に言ってもぜんぜん理解できないだろうなあと思う。といっても、上記のようにいろいろな項目をチェックしながら「表現一般」を執り行う自分の「つもり」(欲望)について考えるのはまったくもってつまらないし、結局はたぶん同じことだろうし、考えないよりはいいのかもしれないけれども、良くはないし、このことを大学生のときの自分に言ってもぜんぜん理解できないだろうなあと思う。責任といってはみたものの私にとっては責任というよりもそれがひとつの欲望でもある。自分を知るとか自分探しとか自分の個性とかそういうことではなくて、たんに「場」としての「自分」の属性というか位置というかそういうのの探査。と同時にそれを踏まえて、それに沿ったり沿わなかったりするいろんな行為をやることで、「場」としての「自分」の属性というか位置というかそういうのを変化させる。で、次はそれがどう変化したのかなーという探査。どういうふうに変化するかは知らない、というか、知り得ない、というか知ったこっちゃない。としか言えない。自分の「好きな」ようにしても楽しくないから。で、もうひとつの欲望というかこれはもう体質だと思うけれど、それについては言ってしまったらあまりに陳腐で面白くないので言わない。書かない。この体質は、会社で働いていたときもそうだったし、いまもそうだと、うすうす気付いていたけれど、昨日くらいにはっきり思った。ただたんにひとつの「場」には私と公が同時に含まれる、ということかもしれない。私であり、公でもあるという。あと、ここ(ブログというもの)にいろいろなことを書いているのは、書かない、書けないことを意識するためでもある。そこからまた新たにはじめる。ぜんぶ書ける、とか、ぜんぶ書きたい、とか、ぜんぶを書いていきたい、とか、(ブログに)書けないことはない、とかそういうのはたぶん嘘だ。すべての人にじぶんのすべてを晒したい、というような欲望は嘘だ。なにかを隠すためになにか以外を隠さないという嘘と、その嘘を嘘として利用するという嘘と、嘘を嘘と知っていながら嘘だから面白いという嘘。とかいうのはただのことば遊びでしかないですが、嘘というものにはとても興味があります。嘘と本当という思考法とか。