父のibook15インチ、14.5インチやったかな、より更新。平間君ちにも同じサイズのがあって、キーボードとトラックパッドについているカバーというか汚れ防止のフィルムをはがそうとしたら怒られてというより窘められて、おじの車の後部座席の新車のまんまのあのカバー、スーパーに行ってお肉とかおそうざいとかを買ったら入れることになるビニール袋と同じ素材のあのカバー、も年末にずっと言い続けて、すべるって言い続けて、ばあちゃんの病院が山の上なので後部座席に座るとカーブの度にふんばってもふんばりのきかない感じを味わうことになって、姉ちゃんとか母ちゃんとかがいると後部座席に座る人がでてくるからそうなる。年が明けたらとれていた。
私のように美しい0118 踊る人たち」より

今日それで『アフリカの印象』続けて読んでいたのだけど、怖いのは引き続き怖いって間違えた。怖いんじゃなくて怖くなくて描写描写でたいへんなのは引き続き大変だしもーそろそろ堪忍してー、とこちらの緒がいつ切れるともしれぬ状態だったのだけれども、どうやら長い祝宴は終わったらしく、今度はいろいろエピソードエピソードになったのでずいぶん読みやすくなり、例えるならば今まで腰までの深さの水の中の道をこれどこまで続くのかなーがわからない状態でよっさよっさ一歩一歩あるいていたのが、曲がると途端に水なくなってしかも下り坂じゃんラッキー、となった感じで、下り坂っていうのはスタスタいけるのでたいへん楽な道である。マラソンなどであれば下り坂はペース配分しないと後で痛い目に遭うよと解説者言うようなところだけれども、そう言われても読書ってマラソンではないからねーと一笑に付す。
しかし今エピソードエピソードな箇所ではあるのだけれども前半の執拗というか超即物的な描写を乗り越えてのこのエピソードエピソードはなんというかまだ肌ざわりが違うようで、ずっと頭に思い描きながらここまで来たため、広場の様子とか催しの様子とか仔細まで頭がぼんやり把握していたりするので、なんかエピソードにもそれぞれ立体感が余裕でもたらされていくようでおかしい。おもしろおかしい。

『アフリカの印象』の前半はほんとにしんどくて、akttkcさんが著者名が覚えられないと書いていらっしゃるので私も覚えられないことにする。文字というか文章が面白いのは、書いてあること以外は書いてあることのなかにはないということで、書いてあることをまずは鵜のように鵜呑みにすることからしか始まらないのがいいなあと思っていたら、文字だけじゃない時にもそうなって、言外のこととか仄めかしとかそういうのを感じる能力がだんだん退化しつつあるので、たしか『アフリカの印象』の解説にルーセル本人はしんどかったら後半から読んだ方がいいよ、って書いた紙を本に挟んで出版したらしいと書いてあったけれど、後半から読んだら前半を読んでから後半を読むときの繋がってる感というか、大人になってから自分の卒業した小学校に行ってみて、あーこここうなってたねえ、あーそうだったそうだったというような感じは味わえないだろう。といってもきのう行った日田では、偶然ネットで(日田の)写真を見て小さいときにじいちゃんと行ったことある!と思ったものの、実際に行ってみるとぜんぜんこれっぽっちも小さいときにじいちゃんと行ったことある!感はしませんでした。残念ながら。不思議なものですが。あさ花屋さんへ出勤する母ちゃんの運転する車に便乗して肥前鹿島駅に行き8:28の電車に間に合うが、母ちゃんは仕事に遅刻したらしい。車のなかで(いつも遅刻しているから)いけません!と自分で言っていた。でも遅刻しようがしまいがどうでもいいっぽい。いま、猫は、首振り運動をする縦に細長い電気ストーブの前、電気カーペットの上、で寝ころんでいる。近づくと危険を察知して起きる。肥前鹿島から鳥栖へ行き鹿児島本線に乗り換えて久留米に行きなんとか大線に乗り換えて日田へ行く。久留米できのう父ちゃんが焼いたパンをあさ出る前に手渡されたパンを食べながら電車を待っていると、電車が着いたときのアナウンスのテープは「くるめー、くるめです」の最初の「くるめー」を歌うように発音する、3,40代の女性の声で、「く」にアクセントを置き、「めー」を優雅に伸ばす。JR九州の電車とその車内はそのほとんどがすごく新しくてかっこいいかどうかは別にしてでもけっこうかっこいい。水戸岡鋭治さんという方がデザインしているという情報をJR九州のいろんな駅に貼ってあるどこかの駅のリニューアル記念にその駅のどこかの壁面をかざるタイルのはっぱの絵を描きませんか、というポスターを見て知る。「JR九州 車内」でgoogleイメージ検索してみたが、wikipediaJR九州817系電車のページなどを参照のこと。アドレスは「http://ja.wikipedia.org/wiki/JR九州817系電車」帰りの日田から久留米までのなんとか大線の電車でいろんな駅から乗ってきていろんな駅で降りていく高校生たちがいて、私が座っていた2人掛けの椅子が向かい合わせになって4人用みたいになっているところに女子高生2人組が座ってきてちょっとびびる。スカートがやたら長くてあー名前をど忘れしたがどいさんから教えてもらったあのなんとかのレッスンバッグを持っているのは神戸の女子高生だけで、それ以外の女子高生は基本的にはスカートが短いというのが電車に乗って長距離移動するとよく分かる。日田では意味もなくうろうろして、町の電気屋さんみたいな電気屋さんの入り口あたりの柱につり下がっている分解されてスピーカーとカバー前部だけになったラジカセから流れるレディオヘッド(を流しているラジオとケーブルで繋がっていたのか、じっくり見てみたがなんだかよく分からなかった)を聞いたり、5匹の猫と2匹の犬を見たり、そのなかの1匹の猫は鳥かごで飼われているカラスのとなりでぼんやりしていて、そのなかの1匹の猫は古い民家の庭の木に登っているところを私に話しかけられ返事しながらこちらに来ようとしてあたふたしたり、そのなかの1匹の猫は美容室で飼われていてドアのガラス越しに見えた私になにか訴えるように動き回っていて、そのなかの2匹の猫は三隈川沿いの旅館街の川側に繋がれている屋形船のひとつにどこかから入り込んでいて、犬については忘れた。もっといたような気もする。川沿いの公園で休憩しているときに散歩中の(1匹は自転車に乗った若い男性に担がれるように移動していたが)2匹の犬を見て、町中を歩いているときに犬小屋のあたりでごろごろしている犬を2匹くらいみたので3匹は見た。カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッと音をさせながら私のいるお地蔵さんの広場の前を通って細い川を細い石の橋で渡って道というより用水路の両サイドのてっぺんの片側を歩いていくなんらかの書類をなんらかの場所に運んでいくパンツスーツの若いOLさんも見た。帰りは鹿児島本線の事故で電車いろいろ遅れていて、いろんな線が交差する鳥栖はなんだかバタバタしたような雰囲気が漂っていたが、電車の遅れと遅れた電車の到着を知らせるアナウンスがやけに若い女性の声でちょっと気になって、待合室に向かう途中に改札あたりを通ったときに、マイクに向かってしゃべっている若い女性職員ともうひとりの若い女性職員を確認した。待合室では遅れた電車の到着とかそれがどのくらい遅れたかとかそれがいつ出発するかとかのアナウンスがずーっと聞こえていて、たとえば、このアナウンス(の聞こえる状況)を録音したとして、それを鉄道マニアの方が聞くと、電車が来たり行ったりする状況を頭のなかに再現できるのかもしれないと考えた。昼はいた屋本家でうなぎのせいろ蒸しを食べ、豆田ロール粋-sui-にてチーズロールを買い、店内の棚に「ろーるけーき屋さんになれるでしょう」という紙の貼ってある紙粘土でつくったロールケーキの貯金箱があったので、ロールケーキ屋さんに「ろーるけーき屋さんになれるでしょう」という紙の貼ってある紙粘土でつくったロールケーキの貯金箱があるなあと思いお店の女性に聞いてみると、娘さんがつくったものらしく学校の先生に「ロールケーキ屋さんになれるで賞」をもらったらしく、おーいいですねえ、と言った。そう思った。いまアップしてみて気づいたのだが、wikipediaJR九州817系電車のページはアドレスに漢字が含まれていてはてなダイアリーにURLとして認識されない。アドレスは「http://ja.wikipedia.org/wiki/JR九州817系電車」。昨日というか日付としては今日ケーブルテレビのなにかのチャンネルでやっているのを渡邊二郎「芸術の哲学」の第5章「ディオニュソス的なものとソクラテス主義」を読みながら見た「間宮兄弟」がわりとよくて、主役の2人もいいけれど沢尻エリカさんと北川景子さんがよくて、「断る!」とか、ともだちとしての抱擁とか、「ほんとうはクリスマスパーティっていいたいのにおでんパーティっていうのがおくゆかしいじゃない」とか、「好きな人が好きなことをしていたらそれでいい」(つまりその「それ以外」にはあまり興味はない)とか、そういうベクトルの女子感がよく出ていて、なんというかこれは出会ったことのある感じだなあと思った。はてなブックマークよりにょろにょろとたどり着いたatarumoさんのatarumoの日記より

2008-01-08恥ずかしいセリフ禁止!!」
ってセリフ(つっこみ、ゆりもどし)があるから恥ずかしいセリフも認める事ができる世界ができあがる。

恥ずかしい台詞に満たされても蛇口を閉めるように粛正を差し込んだり。時には忘れるほど飲み、ひたるわけだ。


明石家さんまがいつの日か「笑いは(切り詰めれば)緊張と弛緩しかない」とTVで言っていたが、
音楽やお話の構成にも多分に通じる。
(一曲演奏が終わると観客が声を上げて静寂をかき消す。
音楽ジャンルの「ポスト〜」ってのは曲中にその演者と客の波(レスポンス)を意図的に取り込んだもののように思う。
実際の細かい所はよくわかってないですが。
曲間を演者は操作する。
世間話したり、
曲間(にあるレスポンスも、)そのものをそぎ落としたり。
むしろだらだらしたり(アウェイをホームに)。
スタイルによって様々。)

「「恥ずかしいセリフ禁止!!」ってセリフ(つっこみ、ゆりもどし)があるから恥ずかしいセリフも認める事ができる世界ができあがる。」っていうのはまさしく樫村愛子さんが「ネオリベラリズム精神分析」でいっている「笑い」の機能(再帰性)で、そこに明石家さんまさんのはなしを繋げるあたりatarumoさんすごいなあと思いました。とはいっても、樫村愛子さんが「ネオリベラリズム精神分析」でいっている「笑い」の再帰性の限界というかそういうものについて、ほうほうそうだなあといまのところはわりと実感を持って思っているので(かといって「笑い」より「精神分析」だ、とはぜんぜん思いませんが)、最終的には「笑い」ではないところ、ないしは、「笑い」の更新みたいなところ、まで行かないといけないのかと思っていたりもします。なんか「形式」またはこういってよければ「言い訳」としての「笑い」って息苦しかったりしませんか。たしかに茶化すのにも限界(限度?)があるような気がします。