父のibook15インチ、14.5インチやったかな、より更新。平間君ちにも同じサイズのがあって、キーボードとトラックパッドについているカバーというか汚れ防止のフィルムをはがそうとしたら怒られてというより窘められて、でもこうしといたら猫がキーボードにおしっこしても大丈夫だ。吉村さんのはてなダイアリーより。最近すこし文体が変わりましたね。それにともなってなんか中身も変わったような気がします。三太8号の文章でも思ったのですが、だんだん身軽になってきたような感じでしょうか。三太8号の文章はいろんな人が自然な感じがするねーと言っていました。私もそう思います。明日は予定を変更して18きっぷを20日までに実家で使い切るために九州内の温泉地にでも行こうと思い探していたらちょうどよい距離のところに「日田」というところがあって、そこの写真を見ていたらなんか見覚えがあって、どうやら小学生くらいのころにじいちゃんに連れられて行ったことがあるところで、そうとは知らずにたまたま調べた温泉地の写真で見てそのことを思い出したというのがすこし感動的でありました。

2008-01-16 良し悪しの基準
僕自身は演奏家から観客への一方通行のコミュニケーションではなくて、そこで生まれる循環的な構造をも演奏に取り入れたいと考えています。「フィードバック」とはその意味で、表現と受容の関係性をめぐる、一つのアナロジーとしても機能するのかもしれません。

2008-01-17 偶然
ところで、「即興演奏」でもそんな体験をすることがあります。僕にとってはそんな自分の意思では選択できないような偶然的な出来事が訪れた演奏が良い演奏です。それはもう自分では選べない。上から落っこちてくるんです。そういうチャンスが。たまたまのことなのですが、それはそうなるべくしてそうなるというか、ともかく、それに無理に抗うのではなくて、偶然性を受け入れる、というか、偶然性をそのまま肯定する、というか、出会いに驚く、というか。

平間君も言っていましたが、たしかに吉村さんの表現には「表現と受容の関係性」についての考えが含まれています。私も、吉村さんとアプローチは異なるかもしれませんが、循環であったりコミュニケーションであったりといろいろ考えます。あと私も、よくアナロジーでものを考えるのですが、実際に起こる出来事としての「表現」において、アナロジーがアナロジーを越えないというかアナロジーがアナロジーでしかなかったりするところに、アナロジーの限界を感じたりもします。。間接的な方がかえってアナロジーが具体性を持って立ち現れるのかなあと考えたりもしますが、まだまだぜんぜんよく分かりません。きのう、もう日付が変わったのでおとといですが、鈍行で帰る途中に、私たちはもろもろの事象、出来事を、「選ぶ」のではなく「出くわす」のだなあ、と思いました。それから、出くわしてしまったものに対して、これがなぜ自分に出くわしたのか、問うのは無意味というか、山でクマに出くわして、クマになぜここにいるのかと問うても、「山に住んでいるんだよ」としか答えられないでしょうし、反対にクマの方から問われても「山登りに来たんだよ」くらいしか答えられません。出くわしてしまったことを自分の身に起こったこととして引き受けて、そこを始点に始めるしかないのに、私たちはそこから無理に遡行して、これとなぜ出くわしたかから考えてしまうように思えます。そうなると出くわした理由の探求は、その出くわしたもの自体に向けられるわけで、上のクマの例でいうとヒトの立場からするとクマが責められますし、クマの立場からするとヒトが責められることになるような気がします。「もう、なんでここにいるんだよ!」という感じで。出くわしたこと自体にはぜんぜん意味はなくて、出くわしてからそれを「自分」がどう意味づけていくのかを慎重に見守る方が楽しいかなあと思います。出くわした意味を出くわしたもの自体に問うよりも。ちなみに、クマのアナロジーはぜんぜんよくなかったですね。クマではなく「作品」であったり「演奏」であったりする方がよかったかもしれません。「作品」であったり「演奏」であったりする場合、出くわした(出くわさせた?)根拠は作者や演奏者のように思えますが、作者や演奏者も出くわしてしまったひとりでしかなくて、「出くわした」という意味では、作者も観客も同じかなあと思います。「出くわし」を完全にコントロールできる作者や演奏者がいるとすれば、それはもう神様だというしかないように思いますし、もちろん厳密にいえば、作者や演奏者がやるのは「出くわし」の範囲の指定なわけですが、「出くわした」結果をもって、作者に「出くわし」の範囲の指定の根拠を問うのもなんか無意味な気がします。なので私は出くわした(出くわさせた?)根拠を作者に問うことから始めるのをやめる、というよりも出くわした(出くわさせた?)根拠を問うこと自体をもうやめようかと思っています。そんなことするよりも、単純に「それは自分にどう経験されたか」から整理した方が面白いかなと思います。回り道かもしれませんが、最終的にはぜんたいとしてなにがしかの役に立つのではなかろうか。と思っています。でも結局、「それは自分にどう経験されたか」を見る=決める=選ぶ(内省においては、自己に関して「知る」と「決める(選ぶ)」がほとんど同じであるような気がしています。いまここであまり細かくは書けませんが)のは自分であるわけで、そういう意味で、見る(決める(選ぶ))プロセス自体を見る(決める(選ぶ))ような再帰性のための思考ツールを欲しいです。字面をみてすでにお分かりだと思うのですが、もし完全な再帰性があるとすれば、これも神様のものだというしかないのがまた微妙なところですが。