いま読売テレビで「風花」をやっていて、大友良英さんが音楽をやっているということで知ってはいたけれど、そして映画のチラシもどこかでもらってきて押し入れのなかにあるファイルのどこかに入っているだろうけれど、観たことはなくて、いまさっきまで北海道の焼肉屋のシーンで、去年の1月後半から2月頭にかけて行き先を決めず適当に旅行していて、広島-尾道-因島-今治-丸亀-高松-直島-岡山-津山-智頭のなかの直島でこういう焼肉屋に行った。女が北海道のお寺に行って追い返されて鳥居のあたりでうろうろしているシーンで、とつぜん思い付いたというか繋がったことがあって、都会の雑踏を歩くときにたまに思うことがあって、最近だと阪急梅田の3階改札からエスカレーターで降りてさらに阪急三番街方面にエスカレーターで降りて、ちょうどダッツの下あたりを歩いているときに思ったのだが、私の周りを歩いているたくさんの見知らぬ人の歴史というかいままで生きてきて出会った出来事が全部いっきに分かったら大変だろうなあ、ということで、つまり、私の周りを歩いているたくさんの見知らぬ人の記憶を全部いっきに体験してしまったら大変だろうなあということで、そういうことをするのが映画(というつくりごと?つくりごと一般?)なのかもしれないと思った。女の過去(の出来事)を知り(見)ながら男の過去(の出来事)をも知(見)ることができるのは、映画というものそのもの、または映画を観ている人間だけで、男の過去(の出来事)を知り(見)ながら女の過去(の出来事)をも知(見)ることができるのは、映画というものそのもの、または映画を観ている人間だけで、そういうことなのかなあと思った。男とか女とか山とか車とか海とかピンサロとかゴミ捨て場とか歩道橋とかそういう画面に写るもろもろすべてを(強引に)繋げるのが、映画(というつくりごと?つくりごと一般?)で、それを繋がったものとして観るのが観客なのかなあとなんだか分からないがとつぜん思った。