yomayomaさんの女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ
http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/
2008-01-05[music][菅谷クンと松浦クンとおしゃべりというリスキー][考えるのの]
http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080105
を読み、私はyomayomaさんの思考に全面的に賛成というか、そうそう、たぶんそうなんですよね〜と思いました。音楽に限らず「表現」一般について。そして、「出逢いテクノロジー」「ファッション化」「価値共同体」という「表現」一般にまつわるヒトとヒトのコミニュケーションじゃなかったコミュニケーションという側面についていったんきっちりと意識する、またはいったんきっちりと前景化する、ことの意味について。「表現」一般を織り成す要素とそのあいだの関係について。自分たちが依って立っている基盤について考えることについて。「(手による)つくる喜び」なんて見せかけとまでは言わなくても、表面的なものでしょう。もうすこし細かくする必要があると思います。あと、私がさしあたって目指すのは、「表現」一般における(記号)表現の純粋な質量的次元において、ヒトAとヒトB(とヒトCとヒトDとヒトEと…)のやりとり、またはヒトAとヒトA'のやりとり(自覚のフィードバック)のより現実的な「形式」について提示すること、です。こういうふうに書くと自分でもなんだかまったくさっぱり意味が分かりませんが。あと、個々の主義主張、信念があることはひとまずOKだとして、つまりそれがそれぞれにあるのはOKだとして、そしてそれらの信念がお互いに関係(対立ではなく)しあうのもOKだとして、それならその関係について考えるのが重要で、「信念は人それぞれ!」からそのあとどうしましょう、ということだと思っています。「信念は人それぞれ!」であることそれ自体にも、「それぞれの信念の内容」それ自体にも、それ自体ではとくに意味はなくて(ということは自分の信念(と前提はたぶん違いますが)を主張することそれ自体にはとくに意味がなくて)、それらが関係しあうことで、どうなるか、どうしたいか、どういうやり方が有効か、ということを考えるのが楽しいと思っています。有効か、ということはそれを判断する上位の基準がまたもや必要になるように見えるのですが、個々が個々の「関係」の体験をいかに自己に差し向けられるか、だけで決めればいいかと思います。差し向けられればそれでよし、といいますか。とにかく「関係」から何を取り出すかが重要なのであって、「関係」の要素としての個々の信念なんて現実のやりとりにおいてはどうでもいいと思っています。もちろん当座のさしあたっての便宜的な個々の立場/前提/主張/主義/信念などはやりとりの要素として必要なのですが、やりとり自体が重要なのであって、そういう個々の信念の類は当座のさしあたっての便宜的なものでしかないと思います。やりとりするからにはお互いに良くも悪くもなにかしら根本的に変化しないと。とりあえず、たいていの2項の関係(対立ではなく)で表される問題はここに収斂させることができると思っています。また私は、平行線でいいじゃん、とか、そもそも平行線じゃん、とは、とりあえず思いません。まだなんかありそうだからです。