お風呂に入りながら、「私がこのまえ録音したもの」を「私がこのまえ録音したこと」について考えていたら、私がなぜ録音に興味があるのかが、私は録音の何に興味があるのかが、ほっとひょっこり分かったかもしれなくて、私は何がしかの出来事(事柄/こと)の音による記録としての録音に興味があるのであって、それ自体で一種の「作品」であるような何がしかの物理的な音響現象(もの)を生み出す方法としての録音には興味がないのかもしれない。録音することを経由せずとも、発音の時点において、それ自体で一種の「作品」であるような何がしかの物理的な音響現象(もの)を生み出す方法としての演奏に興味がないのと同じなのかもしれない。何がしかの出来事(事柄/こと)の音による記録を行った時に残される、何がしかの物理的な現象(もの)の側面としての音それ自体には興味がないのと同じかもしれない。たとえば、2年やって今年で3年目の「ご自由にお持ちください」(便宜的にそう呼ぶ)なんかの例でいうと、コンピュータとテープレコーダーとチェキをリュックに入れて、いろんなところに出かけて気に入ったところで録音しその模様を撮影し、その結果残るテープとポラロイドを本屋とか古本屋とかギャラリーとかいろんなところに置いてもらって、見ず知らずの人に知らないあいだに持って行ってもらう、という出来事(事柄/こと)が私には大切なのであって、その物理的な現象(もの)としての側面、つまりテープに入っている音やポラロイドに写っている画(風景)はどうでもよいと思っているのは、上述した理由によるのかもしれないとお風呂で思った。私が録音をするのは音楽をしたいからではないということはなんとなく自覚していたが、こういうことなのかもしれない。もし私が音楽をしたいように見える(可能性がある)のならば、それは、何がしかの出来事(事柄/こと)を発生(というか現前というのか)させるためには物理的な現象(もの)がどうしても必要になるからだ。そういう物理的な現象(もの)の「かたち」があるのならば、その「かたち」に直接関係することが目的だと考えることも別におかしいことではなくて、というかむしろ当たり前のことで、そういうことだと思う。でもやっぱり、私が具体的な物理現象として何かを為すのは、何がしかの出来事(事柄/こと)を発生(というか現前というのか)させるためだけなのかもしれない。といっても[こと]に[もの]を従属させたいわけではなくて、[こと]と[もの]は同時に発生するからそもそもどちらかが先行しているとか従属しているとかそういうのはなくて、[こと]は[もの]を規定しかつ影響を及ぼすし[もの]は[こと]を規定し影響を及ぼす。だからどうしようか、というだけのことかもしれない。といっても[こと]=意味ではなくて、[こと]と[もの]と[こととものの織りなす意味]が三竦みの状態でなおかつひとところに留まることなくふわふわしていて、だからややこしいのだ、たぶん、と思い始めている。そして、[こと]に[もの]を従属させたいわけではない、というのは、とくにコンセプチュアルである[必要はない]ということで、というより、[こと]に[もの]を従属させるなんてどだい無理なはなしであって、よって、最初から最後までコンセプチュアルで[あり続ける]ことなんてどだい無理なはなしである、というふうに思っているからかもしれない。あと、メディアとしては、音よりことばの方が可塑性が高いというかより根源的というかそういうふうに思っている。


Olivia Newton John - Physical

Sarah Love - Lets Get Physical

f.o machete - Lets Get Physical

Kylie Minogue - Physical

SPANK HAPPY - Physical