12/22は16時ごろから友達と兵庫県立美術館へ。雨が降っていて風も吹いていて、いまも家の外は強い風が吹いていて台風を思い出す。河口龍夫展を見に行ったつもりが12/16で終わっていて常設展だけしかやってなくて、常設展をみる。展示室2は戦後日本の現代美術その1−1960年代以降の表現 関西編で、ここでグループ<位>というグループを知る。なにやら書かれた石をぐるっと円形に並べたのがあって、直島のベネッセハウスにもこういうのがあった気がするが、割と大きめの石でも大きな部屋に置くとあまり大きく感じないよね、というはなしをする。展示室3南は戦後日本の現代美術その2−1960年代以降の表現 全国編で、高松次郎の影の作品や赤瀬川源平のシャベルを梱包した作品や中西夏之の石蹴りの記録みたいな作品があって、こういうふうに文字で並べるとハイレッドセンターになる。でも梱包されたシャベルを大事そうに展示されてもはいそうですかとしか思えなくて難しい。順路の最後の方に掛け軸みたいなのがいくつかあって、たてに細長いっていうのは奥行きがあっていいよねと思う。ミント神戸タワレコに行って竹村延和の過去の作品を集めた新作を探すもなくて、夕飯は三宮のスープカレーの心。福祉についてひとしきり話す。友達は仕事が終わって夕方から学校に行ってなにやらそういう資格を取ったらしい。12/28はぐっさんと(といっても実際にぐっさんとは呼ばない)15時くらいに梅田で待ち合わせて実際には15時40分くらいに梅田に着いて、ダッツ付近でとメールしたあと阪急梅田の改札から下に降りるエスカレーターには乗らず階段で降りて、阪急三番街から上がってくるエスカレーターの前を通ってダッツ前に向かう途中に、阪急三番街から上がってくるエスカレーターで上がってくるぐっさんと合流してかっぱ横町の古本屋をひとしきり見て、ビーチバレーの浅尾美和選手も可愛いけれど、一緒にペアを組んでいる西堀健実選手も可愛いしなんだか雰囲気に味わいがあると思う。ばあちゃんを担当している作業療法士の女性は西堀健実選手に似ているかもしれない。阪急三番街にあるバーンホーフでコーヒーとチーズケーキを食べる。ケーキセットが650円だよ安いなと言っていて、ぐっさんはケーキセットを頼んで650円のケーキセットはコーヒーの豆を4種類の豆(のタイプ)から選べて、確かマイルドタイプみたいなのを頼んでいて、私はなんだか分からないけれどもなんとなく飲んだことのない、ボリビア・スプレモ・コチャバンバを、ボリビアのこれでと頼んで、ボリビア・スプレモ・コチャバンバスペシャリティコーヒーでスペシャリティコーヒーのケーキセットは750円で、迷いながらもコーヒーだけ頼んだのだが、750円でスペシャリティコーヒーでもケーキセットになりますよ、と注文を聞きに来てくれたお姉さんに言われてケーキセットにする。そういえば、ソシュールのいう、ある言語体系のなかで共有されるもの、「ラング」は、音楽とかそういう表現(活動)の「ジャンル」になんだか似ているような気がして、最低一つのラングを習得しないと言語活動ができない、ということと、最低一つのジャンルを習得しないと表現活動ができない、という点で似ているような気がしたのは、町田健ソシュール言語学」をバフチンの前にソシュールについてもうすこし知っておこうというつもりで読んでいるからで、といってもソシュールの「一般言語学講義」や丸山圭三郎ソシュールを読む」ではないのは、外堀から攻めていこうというつもりもあるが単にびびっているだけでもある。2年前くらいに読んでいた町田健町田健のたのしい言語学」は途中で放ったらかしになっている。たのしくなかったのだろう。習得というよりも、「ラング」として「ジャンル」として、なんらかの「かたち」として顕在化させないと、そもそも言語でも表現でもありえない、ということなのかもしれなくて、スペシャリティコーヒーではなく、スペシャルティコーヒーだった。コーヒーを飲みながらチーズケーキを食べて、ケーキのお皿が下げられて、コップの水を足してくれて、コーヒーカップも下げられて、氷の入った新しい水の入ったコップを持ってきてくれて、その間、客席が2、3回転くらいしていて、「とりあえず置いておく」ことをエポケーと言っていたが、そのときの文脈では「とりあえず置いて」おいて「やってみる」という文脈で、判断を差し控えるという意味なのだが、判断を差し控えるだけなら私の思う現象学におけるエポケーとはちょっと違うのかもしれない。とか、自分の価値観を保留して対象にいったん入ってからそこで見えたものを持ってまた出てきて保留した自分の価値観と合わせて考えてみる、とか話す。さっきはまた違う友達から電話があって、その前にメールをしていて、今日の18時半くらいにその友達から電話が来ていてというか着信お知らせが来ていて、着信お知らせが来たときはばあちゃんと病室でご飯を食べていて、たぶん携帯をポケットに入れていたからかからなかったのだろう。ポケットに入れているとたまに電波の届かないところになっていることがあるようで、そのときにはばあちゃんといたので電話しなくてあとでかけようと思っていたのだが、それをさっきまで忘れていて、忘れていたというメールを送ったら電話があって、最近まわりで喜ばしいことが多くて喜ばしいと思う。私が書いた2007-11-11についてのどいさんの返信への返信を2007-11-11その2を年内に書けなかったのがちょっと残念でもあるけれど、もはや返信への返信であることを超えて、作り手と受け手という制度というか仕組みについて、とか、それに巻き込まれる作り手と受け手について、とかになっていて、だからしょうがないのかもしれない。いま約8500字なのですがまだもう少し時間も字数もかかりそうで、上田桃子さんの顔とハルカリのハルカさんの顔が似ていて、板尾創路さんの感じとチュートリアル徳井義実さんの感じが似ていて、矢沢永吉さんの感じと桃井かおりさんの感じが似ている、というのは上田桃子さんとハルカリのハルカさんの場合を除いて、この前ぐっさんに話してみて大筋で同意を得られたことで、矢沢永吉さんの「矢沢はぁ〜」と桃井かおりさんの「桃井はぁ〜」がとりあえず似ていて、そういう意味では夏頃にNHKで見た「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」の水木しげるさん役の香川照之さんの「水木さんはぁ〜」も近いかもしれません。コンバットというお笑い番組に出てくる松岡シュウゾウ(小庭康正さん)は松岡修造さんにそっくりです。ぜんたいが似ています。この前の食わず嫌い王に出ていた松岡修造さんもかなり面白かったです。


松岡修造からのビデオメッセージ

松岡シュウゾウの熱血コント塾2

小庭康正さんは前半の赤いシャツの客と後半の松岡シュウゾウと一人二役なのだが、同じ人物だと思えないのが面白い。あとこの動画を久しぶりに見て、スザンヌさんはかなり好きです。ぜんたいとして。いまいちばん好きかもしれない。けれどその理由はスザンヌさん自身とは違うところにあるようだ。というのを思い出した。いまめざましテレビのおおみそかSP(?)で、ネコのいっぱいいる田代島というところのコーナーをジャックというネコの物語としてやっていて、そういえば、藤原新也のなんかの本でもネコのいっぱいいる島のはなしがあって、同じ島かもしれないし、いつかはこの島に行かなくてはなるまい。移住してもいいかもしれないが漁師はちょっと…。面白いとは思うが体力的に無理かもしれない。兵庫県立美術館の常設展「コレクションⅢ」の展示室3南あたりだったように思うが、なにかの年表みたいなパネルがあって、地面を円柱(というのかどうか。そもそもこういう書き方だったかどうか)状に掘って、掘った穴とそのなかの土を展示するたしか「もの派」とされる作品がその年表のなかに書き込まれていて、その注釈として、穴を掘って穴と土を提示するものはどこどこでのだれだれの作品が先行している、ということが書いてあって、別に事実として述べるだけならいいのだけれど、その事実を何かの理由や根拠として他のことに使い始めると非常にまずいというかただのイス取りゲームにしかならなくて、そういう枠組みでは多様性を階層構造でしか捉えられないのではなかろうか。この人のこれはあの人のあれに連なる、とか。ツリー構造みたいに。そこではすべての要素にとって上位に位置した最上位の階層、つまりルート(根)の存在をすべての前提としていて、ルートの存在そのものについての反省は構造的にできない。無限遡行を排除するというか。こういう傾向のものはこの人のこれで有名だけれども、実はあの人のこれの方が早い、と言うときに、それをどういうつもりで言うかによる。早いからどうなのか、先だからどうなのか、という反省もなく、ただそれだけで、個々の違いをも無視(できると)して、どちらかを残しどちらかを捨てるようなことが行われていないだろうか。こういう思考の傾向はものすごく強い先入観を作り出してしまうような気がする、というだけのことだけれど。以前に、みた/きいた/よんだことのある「ような」ものなら(データベースに登録済みのものと「ある視点において」近いものなら)、それだけでなぜかものすごくナメてかかってしまっている気がする。少なくとも私にはそういう傾向があるのでどうしてだろうと思う。