yuki「ランダーライン」は「ワンダーライン」の間違いで、「wanda-rain」と打つときの「ライン」の「ra」に先に気を取られて「ワンダー」の「wa」を「ra」と打ってしまったのだと思う。最近やたら妹がニンテンドーDSをやっていて、この前まではゼルダの伝説をやっていて、いまはレイトン教授と悪魔の箱だったかそういう名前の意地悪クイズRPGみたいなのをやっていて、とにかくやたらにやっていて、今日17時まえに、ばあちゃんところ行く?いや明日あさ早く出発(実家に)だから洗濯したり用意があるから(やめとく)ということで、ばあちゃんのところに行って六甲のブックファーストに寄って21時過ぎに帰ってくると、玄関入ってすぐ右のリビングというかキッチン兼リビングみたいなところでなんだか熱心にDSをやっていて、そんなヒマ潰しをする時間があるならばあちゃんの見舞いについて来いよ、とか思ったのだが、そんなことはどうでもよくて、ヒマだからヒマを潰すんじゃなくて、潰すためにヒマを作るんだなあと思った。だから熱心に潰している人にとってはその時間はヒマ潰しではない。DSをしないといけない時間なのだ。そう考えるとしょうがないとも思う。ばあちゃんの病院は山の上にあって行くだけでもめんどくさいし。でも、DSはセーブしたところから時間は経過しないけれども、ばあちゃんの時間はいまも刻々と経過していてその終わりもはっきりと目に見えるかたちではないがだんだん近づいている。さっき「否定的相対主義」(ということばなんて無いことが検索して分かる)で検索して辿り着いた黒木玄さんによる「相対主義に関するよくある質問」より(曾?)孫引き

最後に、相対主義を批判することが社会的に重要である理由を説明している部分を『「知」の欺瞞』から引用しておきます: 

しかし、相対主義のもっとも深刻な文化的帰結は、社会科学に適用したときに現れる。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、この点をはっきり難じている。

……西欧の大学で、特に文学部と人類学部で、客観的な実在についてのすべての「事実」は単に知的構築物にすぎないとする「ポストモダン的な」知的潮流が広まった。簡単にいえば、事実【ファクト】と作り話【フィクション】には明確な区別はないというのだ。しかし、違いはある。そして、歴史家にとっては、たとえもっとも過激な反実証主義者にとっても、両者を区別する能力こそ根本的に重要なのである。 (Hobsbawm 1993, p.63)

ホブズボームは、つづけて、インド、イスラエル、バルカン諸国などにおいて、反動的な民族主義者が広めようとする作りごとを論駁するために、歴史の厳密な研究がどのように有効であるかを示す。さらに、このような脅威に直面したときに、ポストモダン的な姿勢がわれわれをどのように無力にするかをも示している。

 迷信、蒙昧主義、民族主義的狂信、宗教的原理主義が、西欧「先進」国をも含めた世界に蔓延している時代にあって、歴史的に見てこれらの愚挙に対する最大の防御策であった合理的な世界観をこれほどいい加減にあつかうのは、どう控え目にいっても責任ある態度ではない。蒙昧主義に肩入れすることがポストモダンの書き手たちの意図でなかったことに疑いはないが、それは彼らのやり方の避けがたい帰結なのだ。

(『「知」の欺瞞』 274-275頁より)

ここで面白いと思ったのは、「事実【ファクト】と作り話【フィクション】には明確な区別はないというのだ。しかし、違いはある。」というところと、「蒙昧主義に肩入れすることがポストモダンの書き手たちの意図でなかったことに疑いはないが、それは彼らのやり方の避けがたい帰結なのだ。」というところで、事実と作り話の明確な区別はないとする立場の限界はなんとなく感じていて、とはいってもわたしたちがスタートしなければならないのは、区別があるかないか、ないしは区別は必要か不必要か、ではなくて、その対立そのものの意味について考えるというところからだ、というのが現象学のとりうる立場だというのはこのあと出てくる竹田青嗣さんと西研さんの対談にも出てくる。絶対的なものなんてない(あってはならない)から、あなたも正しければ、また私も正しい、といったような、より一般的な相対主義がただ単に「あなた」と「私」のネガティブな線引き(独我論の認めあい?)だけしかできない(しようとしない)ことがとにかく気に入らなくて、ここにはたぶん普遍的なものと絶対的なものとの混同があって、というのはさっき現象学研究会ホームページにある竹田青嗣さんと西研さんの対談「現象学の刷新をめざして」で竹田青嗣さんが現象学の発想の要点について語っているところを読んで気付いたところで、私も絶対的なものと普遍的なものとを混同していて、それでも「なにか共通するもの」としての普遍は信じていて、だからほうほうと思ったのだけれど、竹田青嗣さんが語る現象学の発想の要点の一部より

共存のあるところには普遍性が必ず成立している。普遍性とは、つまり人々(共同体)は多様だが、にもかかわらず、共通項を見出そう、あるいは打ち立てようとするときに現れる概念だからです。
<中略>
この場合の「普遍性」とはどういうものかというと、何か絶対的な至上者を想定するのではなく、すなわち絶対的な善悪、美醜、聖俗の基準を置いてそれで一切を考えるのではなく、多様性からたえず共通項を作り出そうとする努力だということが分かる。
<中略>
多様性が許容され、それをより生かそうとする努力のあるところでは、必ず現われてくる「概念」なんですね。だから、「普遍的なもの」などどこにもない、という主張は、ほとんどの場合、「絶対的なもの」への嫌悪からくる反動形成、秩序や制度への対抗的心性、あるいは、自然な世界像に対する理論的な世界像の心理的優越性の現われだったりするわけですね。

私がいまのところ普遍という概念に対して明確に意識できているのは、なにかが起こる「場」そのものを共通項とする、という考えまでで、これは相対の次元に最大公約数というか(実際の?)基盤そのものを登場させてしまうという意味でなんとなく、保坂和志さんの「季節の記憶」に出てくる主人公とその息子のクイちゃんの会話で描かれる、(その都度の)あらゆるものより大きいという属性を持つ(よってそれより大きいものはありえない)「ピナンポ」なるものと近いように感じて、どちらも相対と絶対の混同でしか生まれない発想のような気もする。というか、相対が絶対に変わるのが果たしてどうなのかという…。あるいはポジティブに、言語の謎が実際の発話という状況において成り立たないことと近いと考えるべきか…。どっちにしてもそれらはスタートでしかないけれど。