木村敏分裂病と他者」「十一章 現象学精神病理学と"主体の死"」より

だからノエシス的自己の限定は、自然がそれ自身を間主観的世界にまで表出し、外部化する動きのなかでの第一段の外出であり、間主観的他者とのノエマ的関係における自己の構成はその第二段の外出ということになる。序に述べておくとデリダも、記号の表現作用という問題に関して、同じように「二重の外出」ということを語っていて、<中略>自己のもつこの二重性格は、自己が空間的・客体的には見定め難い、従ってノエマ的には不在と言わざるをえない時間的な働きであることに由来する。

第一段の外出、第二段の外出と、ほうほうと読み進めて、「ノエマ的には不在と言わざるをえない」という箇所にわりと衝撃を受けて、私が「ない」と思っていたものは実は「ノエマ的には不在と言わざるをえない」ということだったのだなあと思った。第一段の外出が内とか外とかではないところから内への外出で、第二段の外出が一般的な内から外への外出で、私は第一と第二の外出を(無意識に意図的に?)厳密には区別していなくて、だから「ない」と思っていたのだけれども、第一段の外出が「どこ」からの外出かというと、「私」という「ところ」において時間が堆積していくことから逃れられないというか、引き受けざるをえないというか、そもそも「私」は開かれざるをえない存在であるというか、そういうふうなことかと今のところは思っているけれど、ちゃんと勉強します。今日は映画版「大奥」の最後あたりを見てそのあと見逃さずにSPを見ました。松本隆さんの書く歌詞は嫌いではないです。やぶさかではないです。けっこう好きです。


真冬物語堀込泰行 (キリンジ) 、ハナレグミ (永積タカシ) 、畠山美由紀