すっごく頭が痛くて目頭を押さえるとなんとなく楽なのだけれど、目頭を押していると目を開けられない。頭が痛いとかお腹が痛いとかそういう身体の調子が悪いときに、身体の調子の良いときを思い出そうとしても思い出せない、ということを昔から思っていて、きょう妹に言ってみたところ大筋で同意を得られた。とはいっても、目頭を押していても目を開けられない。こともないことにいま気付いた。そしてなんですっごく頭が痛いのにわざわざキーボードを叩いているかというと、ちょっといま思ったことをメモしておこうと思うからで、ここに「地中美術館 新興宗教」という検索ワードでググって辿り着いた方がいらっしゃるようで、「地中美術館 新興宗教」って!と思ってちょっと興味を持ったのでgoogleのそのページに行ってみると、地中美術館のタレルとかデ・マリアの作品を「新興宗教」(のようだ)と評している方が何人かいらっしゃるようで、そんなにおかしい検索ワードでもないようだけれど、そんなことはどうでもよくて、私もそうだったから人事ではなくて、私たちの宗教アレルギーってすごいな、となにより思う。ここでの「新興宗教」(のよう)だという感じ方は明らかに否定的なものであるし、それがなぜ否定的かというと「新興宗教」(のよう)だからだ。というか宗教アレルギーの人達においては、新興宗教=いかがわしい、よって、宗教=いかがわしい、であり、それらについての理解もあくまでもイメージとしての理解でしかなかったりする、ということが我が身を振り返ってみると分かる。私自身はそんなもんでした。いまはとても反省しています。あとgoogleで「地中美術館 新興宗教」と検索して出てくる検索結果のページのなかにラカン現実界/象徴界/想像界という概念を援用(とこの場合言うのかどうか…目的のためには手段を選ばない感じがするぞ…)して現実界の眼/象徴界の眼/想像界の眼という区別というかそういう芸術の判定法でもって芸術を「判定」(むしろ断罪と言いたい)している方のブログがあって、とにかく、すげえなあと思って、もちろん悪い意味で。別に手段についてどうやこうや言えるものではないけれど、その判定法の前提にある、想像界=大多数=デザイン=エンターテイメント=ニセ(贋)のアート|象徴界/現実界=少数=(本物の)アートという対立がそもそもなんなんだろう、と思う。こういうふうな、多数/少数、デザイン/アート、エンターテイメント/アートの対立を前提とした独断的な「断罪」一般に、自分の主義主張をしたい!自分の話を聞け!自分は偉い!という欲望を満たす[以外]の何らかの生産性はあるのだろうか。そしてこういう思考にはそもそも「デザインとは何か?」という問いは生じ得ないのがびっくりでもある。デザイン=表層的=エンターテイメントみたいな思考ってほんとくだらないというか、じゃあそのことでアートをどうしたいのかもよく分からない。というかそもそも対比できるようなものでもないというか。デザインで起きること、アートで起きることの違いを意図的に無視しているとしか思えない。何かと何かを対立させた上で片方を貶めてもう片方を偉く見せる、ってだけでなんにもこれっぽっちも考えてないじゃんとか思う。でもこういうことを書いて絡まれると怖いので、というか個人に言いたいわけではないので、むしろ自分に言い聞かせているわけで、引用とかリンクを張るとかはしません。というのもひとつの言い訳にしかすぎない。やっぱり怖いというかややこしいのが怖いというか話が通じない気がする、、というのが大きいですが…。実際に顔を会わせてお話できたらよいのですが、初対面(対面してませんが)でなおかつネット上での文字のみのやり取りだと、お互いに自説を主張するだけで対話そのものが成り立たない気がします。この私の独り言も含めこういう無数の独り言をどういうふうに考えたら楽しいかが気になります。確かにライトつかないナンバープレートないではほとんど不良の格好だと私も思いますが、大学の頃に川西駅前のモザイクボックスというHMVとか紀伊国屋とかビレッジヴァンガードとか入っている商業ビルの前にカブを停めていて、用事を済ませてバイクに向かうと、遠目に私のバイクのところでなにやらゴソゴソしている人がいて、こういう時ににんげん不思議なもので、知らない人がゴソゴソしているバイクは明らかに私のものなのですが、私は必死にそれが私のものではない証拠を探そうとしていて、とにかく私のバイクではないと思いたいみたいで、でも近づいて行くと私のバイクで、そのゴソゴソしていた人は私のヘルメットを持って走り出したので、私も追いかけましたが、駅の改札のあたりで見逃してしまって、ああ、あの人もひょっとしたらヘルメットを盗られてしまってバイクに乗って帰れないのかもしれない、と思いましたが、私は新しいヘルメットを買いました。(同じようなことが自転車のサドルでも起きているかもしれません)けれど後日ヘルメットについていたゴーグルを盗られて、なんだかしまりのないパチンコ玉みたいなヘルメットになってしまいましたし、いまさっきテレビでやっていたなにかの映画についての番組でおすぎさんが『潜水服は蝶の夢を見る』という映画をおすすめしていてちょっと面白そうで、実は「おすぎさん」と書く前にピーコさんと書いてしまって、それを消しておすぎさんと書き直しました。と思ったら先述のgoogleでうんぬんのところで、googleと書いたけれどyahooだった。ヤフるとか言うのだろうか。最近また読み始めたレーモン・ルーセルロクス・ソルス」がどんどんどんどん細部を拡大していって、細部から挿話がドバーっと広がっていって、全体と部分の距離を保ったまま部分が膨張していくから全体も巨大になっていく(ように見える?)のだろうか。こういうのが入れ子構造というのだろうか。明日もまた病院に行かないといけなくて、10時前に来てと言われて、「傷病名 顔面皮下腫瘍、開始年月日 平19.12.1、終了年月日  」と書いてある何かの書類の(切れ端?)ようなものに赤鉛筆で10:00前と書いたものを貰ったが、これを貰ってもねえ、とも思ったので、さっさと寝たいと思う。私も「なにか長々と書き連ねればどうでもいい感じがうまく分散して薄まるんじゃないかと思っ」ています。