あと、私たちが「「個」と世界との付き合い方」というようなときの「世界」って、どっちかというと「社会」という意味合いで使っているんですよね…。この前ふと気付きました。「世界」と直接触れることができないというか、できないのかも断言できないというか。と思ってくると、ラカン現実界/象徴界/想像界の区別の必要性がなんとなく分かるというか、直接触れることができない「世界」についてラカンのいう現実界をイメージしているわけではないんですが、なにかしらの影響があるのかもと思いました。単純に「社会」が存在する基盤として「世界」を考えられるかというといまいち分かりませんし。とか言いながら外側としての現実界を設ける必要についてぜんぜん理解できていませんが…。私たちにおいてはなにもかもが象徴界想像界の出来事であるというのはぼんやり分かります。あとぜんぜん関係ないですが、ここ最近ずっとうちのばあちゃんを見ていて、いわゆる「認知症」における物盗られ妄想とかそういう被害妄想というのが、自分の目の前に展開された出来事を解釈し自身のうちに定着させるプロセスにおける「歪み」と捉えた方が分かりやすいというか、生物的な知覚プロセスにも目が見えづらいとか耳が聞こえづらいとかあり、なおかつそれを解釈し言語的に定着させるプロセスに個々の「欠け」があり相互に作用しあっているからと捉えた方が分かりやすいというか、というよりも「解釈(まさしく認知)の障害」といってしまった方が簡単なのですが、プロセスに「欠け」があろうとなかろうと、出来事を解釈し自身のうちに定着させないといけないというのは人間に課せられたルールであって、プロセスに「欠け」がありながらも強引に解釈した(せざるをえない)結果が、それこそ結果的に健常者(あくまでここでだけの便宜的な区別です)の社会においては「妄想」ということになってしまうのだなあ、というかそれをプロセスの「欠け」と言ってしまえるのはいったいなんだろう?と思いました。そしてこのこととパラノイアとの何らかの関係について考えることもできるような気もします。形式的なものにとどまるのかもしれませんが。なにはともあれ、「人間はどんな出来事であってもそれを解釈し自身のうちに定着させないといけない」ということが気になります。