お風呂は入ってもいいですか?と訊いてみたら、首から下はもちろん大丈夫だけど、髪を洗うときは美容室でやるみたいに(とイスに座って言いながら後ろへ反る仕草)洗うとか、下向いて(とイスに座って言いながら屈む)洗うと濡れちゃうから、顔は蒸しタオルで拭いて、とのお答えだが、美容室でやるみたいに洗えるのは美容師さんがいるからなのでそれはそれで難しく、とにかく水に濡れなければいいんですよね、というふうにしておいて、Bhob Raineyがデーモン&ナオミのメンバー/アレンジャーでもあるということを木下和重さんのブログで知る。デーモン&ナオミは聴いたことないけど。というかデーモン&ナオミがらみで来るんですね。家を出て山に向かって歩きちょっと大きめの道ぞいのローソンで時間がないので仕方なくお金をおろそうとしたらそもそもATMがなくて、100mほど下ったところにあるセブンイレブンにておろし、病院で清算ができたので薬ももらえた。おとといのそのおとといくらいにドストエフスキー(「なお、姓は訳者によってドストエフスキイドストエーフスキイ、ドストイェーフスキイなどと表記されることもある。」らしい、wikipediaによると)のカラマーゾフの兄弟を読み終えて、私の前の持ち主なのか、それとも最初の持ち主なのか、とにかく最初の持ち主と私のあいだの誰かだとは思うが、第一巻の奥付に31 may 68という日付の入った早稲田大学生協のレシートが挟まっていて、ボールペンで1968.5.31と書いてあって、最終ページには1968.6.3と書いてあり、第二巻の奥付に1968.6.4と書いてあって、最終ページに1968.6.9朝と書いてあり、第三巻の奥付には1968.6.4と書いてあって、最終ページには何も書いていなくて、第四巻の奥付に4 jun 68という日付の入った早稲田大学生協のレシートが挟まっていて、ボールペンで1968.6.4と書いてあって、最終ページには1968.8.10と書いてある。第二巻のオビには「父親フョードルを始め、三兄弟などの主要人物が入り乱れて以上な生活をおくる中、父親殺害の悽惨な事件は起り、悲劇は頂点に達す。」とあるが、フョードル殺害の事実は第二巻では出てこなかったりする。第二巻に収められた第五編第五「大審問官」だけを新訳でロシア語原文と松岡正剛さんによる解説と訳者による解説(あとがき?)を加えて単行本にしているのが最近出たようで、ブックファースト六甲店の思想書コーナーで発見してかるく立ち読みし、松岡正剛さんによる解説が「松岡正剛の千夜千冊」の第九百五十夜「フョードル・ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』」の回である(だったかそれを元にしたものだったか忘れた)という情報を仕入れ、「松岡正剛の千夜千冊」の第九百五十夜をネットで読んでみる。「大審問官」を含めそのあたりのイワ"ンの語りは本当に面白くて、「松岡正剛の千夜千冊」の第九百五十夜も面白かった。ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』が面白そうだなあと思い、ミハイル・バフチンって最近読んでいるいろんな本でよく出てくる名前だな、とも思う。イワ"ンの神の問題、ミーチャとグルーシェンカの関係、ミーチャとカーチャの関係についてのそれぞれの描写が特に印象に残っていて、リアリティ、じゃなくて、「切実」に感じられた。あと日付が変わっているのでいちおう明日になるのだけれど、感覚としては明日の明日だが、竹村延和「kobito no kuni Unreleased Tracks〜1999」というのが出るらしく、竹村ノブカズではなく竹村延和なのはそれが改名前の1999までの未発表インスト集だからだろうか。なにか「インスト集」とかいうとなんだかオマケっぽいというか適当なアウトテイク集のようでナメられてしまいそうだが、竹村ノブカズのことだからそんなことはないはずで、でもチャイルディスクのサイトにそう書いてあるからしょうがない。いま「カートゥンKAT−TUN」に出ている陣内孝則さんが、たぶん映画の宣伝のために出ている陣内孝則さんが、うちは大工(だったかそういう職人)の家系でオレも短気なんだよ、と言っていて、そんな簡単な、というか、それを短気の言い訳というか短気の起源みたいにされても困る、といっても陣内孝則さんと面識のない私はもちろんなんにも困らないが、こういう短気とか損気とかその他もろもろの起源を自分以外のところ、つまり家庭環境とかに置いてのうのうとしている人と出会うとちょっと気を使うが、ということはつまり、その人の短気や損気などを良い意味において認めつつ、かつ、その起源をもまた良い意味において認めないと、こういう人は機嫌が悪くなるということで、しかし少し注釈を施せば図式としては正しくもあるような気もする。起源とプロセス(歴史?)は互いに共犯関係にある。それらがどこか一点(ここでは人間(の個性?))に収斂するためには、起源にプロセス(歴史?)が必要で、プロセス(歴史?)に起源が必要となる。という意味があるんだかないんだか分からないことをあまり確信もなく適当に書いてみるけれど、関ジャニ∞は文字だけ見ると、ポスターやなんかで文字だけ見ると、せきじゃにえいと、みたいだとブックファーストにくっついているなんとかファーストというCD屋に貼ってあるポスターを見て思った。と、いまyomayomaさんの「女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ」「2007-12-19 交通 考えるのの オルタさんのメモにメモ」を読んでみて、いまのところの自分の興味の範囲でしかないですがちょっと考えて、「作者の消失」を、「個」と世界との付き合い方としての「はたらきかけ」として…、「語ること即価値」のそういうコトそのものが在る次元ではなくそれらをまたどうにかする次元について…とか思ってみましたが、つまり「価値」の価値についての認識をどうにかしたいのかなんなのかいまいちまだよく分かりません。。たぶんyomayomaさんの感じておられる違和感と通じるのかもしれませんが、そのまま「進む」のでは意味がないというか、どうにもしきれんというか、結局おなじというか、価値(の一次?)生成よりも価値受容(という(二次?)生成)についての思考が先のような…。人の話を聞かない人ばかりになるとどうしようもありませんし…。という意味で私はレヴィ・ストロースとか対話とか精神分析とか間主観性とかそういったようなものたちが気になっているのかもしれません。