というのは元々アイデンティティの問題として考えていたことで、そういえば私が行っていた小学校の校長が朝礼だとかそういうものでしきりに、自分だけが一番になれるものを見つけてナンバーワンではなくオンリーワンになってください、と言っていてこれはマッキーが言うよりもはるかに昔で(マッキーとは微妙に違う意味だとは思うけれど)、その頃はほうほうと聞いていたのだけれどいまになってよくよく考えると、それは自分だけが一番になれるものを見つける競争でナンバーワンにならないといけないということで、結局はナンバーワンもオンリーワンも「競争」という意味においては同じことで、そういう捉え方をしたくない人は、もう曖昧に情に訴えるような方法しか残っていなかったりする。人間をもろもろの社会的な価値の次元というか抽象的な観念の次元というかで考えたとき、機能として取り替え可能であることは当たり前で、部分が変わろうとも全体はなんとなく進んで行くのであって、取り替え可能であることに特に大した意味はない。私が気になるのは「(機能としても)取り替え可能であってはならない」という信念を持つ人ほど、何かと何かが取り替え可能であるかどうかの多面的多角的な判断力が欠けている。(というか「(機能としても)取り替え可能であってはならない」という信念を持つためには、何かと何かが取り替え可能であるかどうかの判断が、神ではなくあらゆる意味で有限な人間に可能であることが前提になるのだが)というよりも、どうやらそういう人たちは、イス取りゲームの審判としてイス取りゲームで同時に座ったふたりのどちらが早かったかをゲームの外から口出ししたいだけであって、自分をゲームの外に置いてそのうえ口出しもしたいからひとつのイスにふたりが座ることを許さないのであろう。こういう人がムカつくのではなくてこういう行為が非常にムカつく。そのうち全員が審判になって審判の審判をするやつがでてきて審判の審判の審判をするやつがでてきたりするだけで、それこそ面白くもなんともないしバカバカしいだけだけれど、

立木康介精神分析現実界フロイト/ラカンの根本問題」「第八章 ロラン・バルトの見えない同性愛」より

セミネールにて」という1974年のテクストのなかで、バルトは「父」をこう定義している。

父、それは話すものである。為すということの外部で語らいを行う者であり、その語らいはいかなる生産からも切り離されている。父、それは言表のついた人間なのである。だからまた、父を言表行為の状態で不意打ちすることこそ、なににもまして違反的なのである。

瘤でもついたように「言表のついた人間」、そしてその瘤を横柄にふりかざす人間―それは、端的にいえば、テロリズムとしてのメタ言語を話す者であり、バルトはその批評活動を通じて、絶えずそうした話し手を撃ってきたのではなかったか。さらには、「作者はその作品にたいして、父親が子供との間に持っているのと同じ先行関係のうちにある」と述べつつ、近代文学における「作者の死」を宣告することで、彼は文学の世界においてひとつの「父殺し」を敢行したのではなかったか。

メタ言語とは、あらゆる語らいにたいして超越的にふるまいながら、それ自身はいかなる語らいによっても相対化されない(相対化されることを拒絶する)言語であるといってよい。そのような言語は、けっして十分に根拠づけられることはない(メタ言語の権威は、もっぱらその権威的なふるまいのうちに存する。つまり、メタ言語は権威をもつから権威的なのではなく、権威的にふるまうから権威をもつように見えるにすぎない)。

テロリズムとしてのメタ言語を話す者が、為すということの外部で語らいを行うことが、いかなる生産からも切り離されているにも関わらず、(権威的にふるまうから権威をもつように見えるにすぎない)メタ言語を使うのは、権威的にふるまいたいからだとしか思えないがどうなんだろうか。「作者はその作品にたいして、父親が子供との間に持っているのと同じ先行関係のうちにある」のはいいとして、それならば「死」のない作品に対してその父親である作者は自分の死後どう責任を取り続けるのだろうか、作品が世に出た時点で作品は成人しているのであって、親の手はもう離れているのではないだろうか。にも関わらず子離れしようとしない父親は一体どういうつもりなのだろうか、子離れを許さない受け手は一体どういうつもりなのだろうか。とかごちゃごちゃ書いてしまったりしているわけであるけれど、これを倫理的な問題として言っているわけではなく、「倫理」なんてものはそれを説くものが神のような根拠の果てとしての第三者でない限り成り立たないわけで、「倫理」を個別の人間が神のことばとしてではなく個別の人間のことばとしてとして語るということは、多かれ少なかれメタ言語を話すためのメタ言語にしかならないということです。だからこれもそうなのかもしれませんが、私はただ単に自分を棚上げしなくて済む方法をいろんな方面で探しているだけです。