googleで「クレタ島人のパラドックス」と検索してここに辿り着いている人がいたようで、そのgoogleのページに行ってみて辿り着いた宮台真司さんによる「宮台真司東浩紀を語る!」が面白くて、最後のあたりはうーむ、という感じではあるのだけれど、部分的に最近考えていること、というか私が書いた2007-11-11についてのどいさんの返信への返信を2007-11-11その2として書いていてなんだか分からない内に5000字を超えたりして、でもうまいこと進んでいるのでそのまま進めていることに関係がありそうで、宮台真司さんといえば大学の頃サブカル大好きな友人に薦められて「終わりなき日常を生きろ」を文庫で読んだのだけれど、内容どころかそれを読んでどう思ったかすら覚えていないしなにか思ったかどうかも定かではなくて、それはともかく
MIYADAI.com宮台真司、東浩紀を語る!」より

機能主義の伝統に遡る必要はないと思うんですけど、ルーマンという人が、機能主義の存在意義について「機能主義、あるいは機能論は、因果主義、ないし因果論に対立する」と述べています。因果論とは何かといえば、存在論的な思考である、というわけです。つまり、どうしてそれがそこに存在するのかについて疑問を持つ。それがそこに存在せざるを得ない理由を排他的・一義的に説明しようとする図式である、と。


 もちろんそれは東的にいくらでも言い換えることができるわけで、つまり現前の唯一性というか、そうしたものに対する信仰が存在する議論なんですね。機能主義は存在論に、つまり因果論に対抗する。機能主義は、何故それがそこにあるのかは説明しない。機能主義が説明・記述するのは、それが寧ろ取り替え可能なものであること。それで、何と取り替え可能であるのかということも一義的には言えず、準拠視点(フレーム・オブ・リファレンス、言及視点)から、何と取り換えられるのかということについては、どうとでも言えるわけですね。


<中略>


 郵便が誤配だろうが正配であろうがさして問題ではなくて、誤配であると気付かなければ気付かないで物事は全て回る。誤配だと気付いたとしても、その後新たに送ってもらうというコミュニケーションがあったりとか、あるいは誤配ということに気付いたことによって、今まで前提としていたものを前提としないで進むというコミュニケーションもありますけれども、ただ、そういうコミュニケーションですら実はある前提にのっかってますから、それが誤配されたものでないとは言えないわけだし。


 だから基本的には、「郵便の誤配」という概念は、「存在論的な思考ができない」と言っているに尽きるんですね。あるいは存在論的な思考をする必要がない、あるいは、しても構わないが存在論的な思考によって把握可能な世界はローカルである、というか、そういう感受性です。あくまで感受性の水準でしか言えませんが、そういうものが実はデリダ=東的な思考とシステム理論の双方に共有されていると。

最初の引用部よりもさらに前に、ルーマン(という人がいるらしい、調べてみよう)のシステム理論的なコミュニケーション論の中に脱パラドックス化という概念があるらしく、それに続いてクレタ島人のパラドックスは「現実において、それによってコミュニケーションは滞らないわけです。」という記述があり、このあたり(竹田)現象学精神分析とも近いように思えて、矛盾が矛盾として価値を持つのは純粋に無時間的な論理空間の中だけであって、矛盾それ自体は現実においてなんら重要なものではないということで、というよりもそんなことに関わりなくシステムは回り続ける、回り続けてしまうということを言っているのだろう。そしていま私が考えているのはまさに、なんらかの制作物(テクスト、「作品」)を読む(見る聴くなどなど)ときに「存在論的な思考をする必要がない、あるいは、しても構わないが存在論的な思考によって把握可能な世界はローカルである」ということで(といっても「ローカル」ということがどうネガティブに作用するのかをきちんと捉えないと意味不明ではあるけれども、というよりいまの私は存在論的思考による作品受容の弊害が気になっていて)、また(よって?)、存在論的な思考が要請する超越的なもの(超越論的なものが可能であるかのように見せる何者か)としての「作者」もそれが読まれるときには全く必要がないということで、私の立場としては機能主義(ってなんだろう、調べてみよう)ということになるのだろうか。でもどちらかというと存在論的とか因果論的というのはあまり使いたくないけれど便宜的にでも一回定義してしまえばあとは便利だなあとも思う。<追記>上記の意味での「ローカル」というのは、観客レベルでそれぞれローカルなのは当たり前なので、ある特定の作者-観客のあいだに限定された、という意味でのローカルということを考えているのかもしれない。別に悪くはないけど、うっとうしいことが多いよね、ということでもあるのかもしれない。