yomayomaさん、「女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ
考えるのの-あまり実際的な話ではない」を読みました。

「一回性」ってのは、パラレルワールドを可能的なものとして許さないといけない、そういう逆説を孕むのではないか?もうちょっと厳密に言ってみると、そういう逆説を孕むということを想定したら、パラドックスパラドックスとして見えてくるので、考え方としては便利ではないか?とでもなるだろうか。


「一回性」は認識でなくて、倫理である、とするとこのパラドックスからは回避される、ような気がする。例えば、希望になったりする、かも。

「「一回性」ってのは、パラレルワールドを可能的なものとして許さないといけない」というのはまさしくそうだと思いました。それぞれにそれぞれの土台を成しているんでしょうね。パラレルワールドという一種の無限から一回性を見直す、というのが面白いです。かといって何も考えずに「一回性」の希望に飛びつくのは危険ではありますが。。引用とは違うところに「(時間の非対称性って物理学一般では公理?)」という一文があって、橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」を思い出して、思い出したときにはタイトルとか著者名とかきちんとは思い出してないので検索してみて、この本に対するアマゾンのカスタマーレビューが26件あるのに驚いて、驚きはしましたがこの数字が驚くに値するかどうかは分からなくて、アマゾンのカスタマーレビューの数々を読む限りは特に公理っぽくないようですが、この本そのものの内容自体はほうほう確かにそうかもしれない、と思いました。しかし一般人である私がぼんやりと思うのは、「時間」について、過去と現在と未来を繋がったものとして考えること自体がたぶん間違っているのではないかしらということです。というよりそういうふうに繋がったものだと考えること自体を「時間」と命名してその内実を探るのであれば問題ないですが、そこで生じる過去と現在と未来のあいだの矛盾を解消することだけに夢中になるのはどうなんだろうと思ってしまいます。「時間」について、単純に量だけを計る「目盛り」として考えてみる方がすっきりするような気もしますし、もし質を考えるのであれば、記憶や記録による過去、いま過ぎゆく現在、予期や予想や予測などなど「予」としての未来、とそれぞれに分けて考えてみる方が分かりやすい気がします。いまふと、そもそも「私たちが過去を想起できること」から「時間」が導きだされてきたのでは、と思いました。身体の次元ではないところで純粋にイメージとして過去を想起できるのってなんだかすごく不思議な気がします。あとは複製技術と「時間」の関係も面白そうです。過去の想起と複製技術による記録の関係、それらといま過ぎゆく時間との関係、未来は…なんでしょうか、私には未来を言い表すことばがありません。。「時間」にとって未来は計るしかできないもののようです。当たり前ですが。とか書いているヒマがあるのなら誰かが「時間」について書いた本を読んだ方がいいのかもしれません。。と、こういうことを考えていたら「SP」を見逃しました。あっと思った時には3週続いた事件が解決していました。yomayomaさんも触れていらっしゃいますが、「一回性」と「時間」は関係があると思います。人間は何をするにも時間が必要です。