だいたい「メタ」ってなによ!と思い、そういえばはるか昔に友達のhako君が「メタ音響」という用語(?)を使っていて、まあたぶん「超」とかそういう感じなんだろうなあとは思っていて、wikipediaのメタの項もまたもや書きかけらしく、それによると、

メタ(meta-)とは、「高次な―」「超―」「―間の」「―を含んだ」「―の後ろの」等の意味の接頭語。ギリシャ語から。


狭義のメタ
ある対象を記述したものがあり、さらにそれを対象として記述するものを、メタな○○、あるいは単にメタ○○と呼ぶ。


広義のメタ
広義に、何かを取り込んだ何か、何かについての何か、といったものがメタと呼ばれる場合がある。

というふうに説明してあって、ここにはある記述様式としての「メタ」しかなくて、そういう記述様式としてのメタなら、メタを記述様式として捉えるかぎり、何の矛盾も生じ得ないので、こういうふうにはっきり書けるのだろうなあと思って、「メタ」をなんらかの対象をその外側から(事前か事後かに関わらず)根拠付けるものと考えるととたんに行き詰まってしまって、とたんに、というのは少し言い過ぎでしばらくは行き詰まらなくて済むのだが、そのうち行き詰まりは必ず来る。なんで?なんで?なんで?なんで?と問うていくと、その「なんで?」が志向する方向に関わらず、なにかの決まり事(ということはけっきょく人間が考えだしたものだが)にぶつかるか、なにかの思い込み(信念とか信仰とか身体とか)に受け止めてもらえるか、(なんにもないところ(というか「なんにもない」もないところ)に出ると考えたくもなるがこれはただの思い込みで実際になんにもないもないところになんて絶対出ない)しかなくて、かといって行き詰まりがもともとあるから行き詰まるのではなくて、そのままでは行き詰まらずただ行き続けるだけなので(というのもただの仮説で実際に行き続けるかどうかは分からない、絶対に行き詰まるから)、行き詰まるために、決まり事とか思い込みとか「なんにもない」もないところに出るという思い込みとかが必要になる。というのが私がいままで生きてきて感じていた自分の実感といろんな人からいろいろ教えてもらったことをお互いに較べたり補ったりして得た現時点での解釈で、ここまで来ると「行き詰まる」ために行き詰まる理由がさっぱり分からない。行き詰まらないとなにかまずいことになるのかどうかさえさっぱり分からない。原因と結果の因果関係が成り立たない。ので「メタ言語は存在しない!」と言われてもわりとすんなりほうそうですねと言えるのだけれど、そうなってくると、なんらかの対象をその外側から(事前か事後かに関わらず)根拠付けるものとしての「メタなんとか」もろもろ一般があるとは思えなくなる。「作品」の根拠(原因)としての「作者」とか「作品」のもうひとりの根拠(原因)としての「観客」とか。「作品」のモノとしての根拠(原因)は「作者」にあるかもしれないが、「作品」の本質はそれによって起こるコトにあるのであって、コトの次元においては「作品」と「作者」と「観客」のあいだに階層構造はない。けれども「作者」は自身の自尊心とか都合とか欲望のために知ってか知らずか(という言い方が合ってるのかしらと思ってgoogleで検索してみたら、知ってか知らずでかという言い方が正式な用法らしいのだがいま実際に使われているのは知ってか知らずかの方が多いらしい)モノとコトを混同して「作者」→「作品」→「観客」という階層構造の暴力を使うときがあるし、「観客」は自身の自尊心とか都合とか欲望のために知ってか知らずか(知ってか知らずでか)モノとコトを混同してさらに反転された「作者」←「作品」←「観客」という階層構造の暴力を使うときがあるので、そういうのに出会うたび非常に腹立たしいが、その現場で何か言うような度胸は私にはなくて、宇多田ヒカルのMC(googleで調べてみると、MCにはMotion Compensation(動き補償)、映像データを圧縮する際に、連続するフレーム(画面)間で映っている要素がどのように動いたかを検出して効率よく圧縮する手法。とかMotion Capture(モーションキャプチャ)、関節部に加速度センサーを付けた被験者に動作を行なってもらい、被験者の動作をデジタルデータに変換してコンピュータに取り込むこと。とかMaster of Ceremony (or Ceremonies)、司会者の意味。転じて、ライブ時の曲と曲の間でのオシャベリを指す用語としても使われる。とか、Machining Center(マシニングセンタ)、合的な加工を行なう工作機械の一種。おもに切削加工を目的としている。多数の切削工具を有し、コンピュータ数値制御(CNC)により加工工具の交換、機械加工を自動で行う。いわゆるフライス盤の進化系といわれるもので、CNCを搭載したフライス盤とも言える。とか、MEN’S CLUB(メンズクラブ)、アシェット婦人画報社が発行する月刊男性ファッション誌。とかいろいろあるようで、宇多田ヒカルは歌手なのでここではMaster of Ceremony (or Ceremonies)、司会者の意味。転じて、ライブ時の曲と曲の間でのオシャベリを指す用語としても使われる。という意味で、宇多田ヒカルのMaster of Ceremonyと歌のギャップが面白くて「うたのお姉さん」を思い出させるが、

ちょっと前の「宇多田ヒカルのMC(」と書いたところで開いたままのカッコを閉じようかそのままにしようかどっちにしても誰も気付かないだろうしかといって変なところで閉じて、ああ、閉じてなかったんだ、っていう気付き方もつまらんし別に面白くもないし(既にもう面白くもないのだけれど)もう八方塞がりになってしまったので投げやりに「)」(カッコ閉じる)を置いた。