昨日ここに書いたのを読み返してみて、これが全部ウソだったらすごいなあと思うのは、そもそも言語がそういうものだからで、書かれた内容がウソであっても書かれたこと自体はすでにウソとかホントとかではない。今日KAVCで遭遇した福永信さんはものすごく人懐っこい人で、この人はこの人独特のやり方でなんか楽しいことがないか常に周りを見ている。今日の「ゴニングミ(と便宜的には呼ぶのだろうか)」のトークショーを聞いて、ちょうどその会場になった神戸アートビレッジセンター(KAVC[カブック]カブック??歌舞伎?)の1階階段裏のスペースはいまやっている「Exhibition as media」の展示もやっているところで、客席の左手から右手に向かって映像がプロジェクターで投影されていて、トークショーが終わり次のギャラリーツアーまでの休憩時間にそのプロジェクターの前あたりに置かれた「ゴニングミ(と便宜的には呼ぶのだろうか)」(柴崎友香名久井直子長嶋有福永信法貴信也)各氏の参考書籍を見るために集まって来た2、3人の人がちょうどプロジェクターの映像にかぶるかたちになっていて、影を右手のスクリーンに映し出していた。もちろんかぶっている以外のところはプロジェクターからの映像が映っている。そういう、思いがけず「うつってしまった」影が面白くて、その模様をイスに座ったままでメモ帳にスケッチしていたら(絵なんて描けないし、小中高の美術の授業の写生とか大嫌いだったし、デッサンもやりたいとも思わなかったし、あくまでもことばを補足するくらいの適当な絵で)、私の左の方に突然現われた福永信さんから、なんかかいてますねー、と話しかけられ、これは、この人はこの人独特のやり方でなんか楽しいことがないか常に周りを見ているな!と思った。ギャラリーツアーの最中も話題になっていること「以外」のことも常に気になっている(なってしまっている、という方が正しいかもしれない)。のがとてもいいなあと思う。書かれた内容がウソであっても書かれたこと自体はすでにウソとかホントとかではない。というのはたぶん「言語の謎」にちょっとひっかかっていて、「言語の謎」について竹田青嗣現象学は思考の原理である」と立木康介精神分析現実界 フロイト/ラカンの根本問題」がいっているのはほぼ同じことで、ということは(竹田)現象学精神分析は「言語の謎」に対して同じような立場をとっているということだろうか。
竹田青嗣現象学は思考の原理である」Ⅲ「言語の現象学」より

ふつうの言語行為は、「発語者」が存在して「受け手」がそれを受け取るという構造をもちます。さきに述べたように、これはパロールでもエクリチュールでも同じです。たとえばここにチラシがあって、「化粧品大安売り」と書かれてある。誰が発語者だか特定できないので発語者は存在しないように見えますが、じつは読み手は暗黙のうちにそれを、ある「売り手」から「買い手」に向けて発語されたものと受け取ります。<中略>つねに状況コンテクストによって"意"を志向しているからです。このように日常的な言語の現象では、たいていの場合、「発語者」と「受語者」の暗黙の関係が想定されているのです。このような日常的な言語のあり方を「現実言語」と呼びます。 ところでいま、言語からこの発語者-受語者の暗黙の関係をそっくり抜き取るとどうなるでしょうか。わたしはそれを「一般言語表象」と呼んで「現実言語」と区別しました。すなわちそこでは言語は、「発語者-受け手」という信憑関係の本質が抜き取られるために「一般的な意味」しか表示しない言語、となるのです。発語者-受語者の関係が生きている言語が「現実言語」ですが、「現実言語」と「一般言語表象」とを区別しないことによってさまざまな「言語の謎」が現われます。その代表的な例が、あの「クレタ島人のパラドクス」なのです。

以下、しばらく「クレタ島人のパラドクス」について続く。発語者-受語者の関係が生きている言語、「現実言語」の次元において考えれば「クレタ島人のパラドクス」はパラドクスとしては成り立たない、つまり、発語者-受語者の関係、「現実言語」という第三者、場があることで、状況コンテクストによって"意"を志向することが可能になり、そのようなところではどのような言明であっても何らかの了解が必ず成立するため、パラドクスは発生しないということが書かれている。そして「発語者-受け手」という信憑関係の本質が抜き取られるために「一般的な意味」しか表示しない言語、「一般言語表象」の次元においては「クレタ島人のパラドクス」はパラドクスとして成り立つこと、つまり「現実言語」という第三者、場のがないところには、言語が発語者-受語者のあいだの像とでも呼ぶべきものを結ぶことなく(そもそも発語者-受語者の「あいだ」がないため)パラドクスが発生してしまう、ということが書かれている。

続いて、立木康介精神分析現実界 フロイト/ラカンの根本問題」第1章「精神分析の反メタ言語論」より

先の「私の述べていることはすべて嘘である」という言明を思い出してみよう。この言明が意味を構成しうるのはどのような場合だろうか。それは、言表のなかの「私」と、それを言表している「私」とが同一でない場合であった。ある主体がもうひとり別の人物にこの言明を行い、それがこの聞き手の不信や怒りを買うことなく了解されうるとすれば、それはそのとき、この二人の対話者によって、第三者であるような誰かが、この言明を行っている主体の分裂を、その言表行為の水準に置いて引き受けてくれるからである。このような第三者とは、そこではこの言明そのものが発せられる「場」以外のものでありえない。すなわち大文字の他者とは、言表行為の主体(言表の水準から閉め出されねばならない主体)の消失を肩代わりすることによってその言表を支える「場」としての、シニフィアンの領野そのものにほかならないのである。

もちろん両者がどのような「つもり」で「言語の謎」に向かい合っているかは異なるとは思うけれど、どちらも「パラドクスを遊ぶ」ような次元に留まるつもりなど毛頭ないことは分かる。「パラドクスを遊ぶ」こととは、分からないことを自ら作り出しておいて、分からながって遊ぶということで、そういう遊びにもピンからキリまであるけれど、所詮じぶんを含めていろんな人を煙に巻くというだけなのではないだろうか。作り出された思考の限界に体当たりして悦んでいるだけなのではないだろうか。というような感じが竹田青嗣さんの「言語の謎」についての記述からひしひしと感じられる。と、あたかも竹田青嗣さんが言ったことのようにしてみる。あとはトークショーのあとのギャラリーツアーで思ったことだけれど、なんかの作品の作者が、そのなんかの作品について「作者」として語ることは必要ないなあということで、そのなんかの作品についてひとりの観客として語る必要しかないということです。今日はプリズンブレイク2がない日なのでさっさと寝なければならない。