「友達の友達のお兄さんがしあわせの村で行方不明になり、一ヶ月後に淡路島の辺で死体となって、いかなご漁の網にひっかかった」らしいというのはとにかくなにやらものすごいですね。。「一体、発表を前提としたものって何を指すの?」っていうのと私が書いたことは似たようなことだと思うんですが、おそらく問題は、誰かが作ったなにかしらのモノそのものの中に[だけ(こそ?)]それを「作品」たらしめる何か(根拠?原因?)がある、とする考えなんでしょうし、まあこれは別に目新しい問題でもなく、いままでの誰かが口々に言っていることだろうとは思うんですが、どさくさに紛れて私もそう思います。「発表を前提としたもの」と「発表を前提としないもの」の違いなんですが、たぶん、発表=他者の目に触れること、ということで、他者の目に触れることを前提とするということは、たぶん、他者との了解(わかる(わかりあう?))の可能性を意識するということで、自分にしか意味が分からないようなむちゃくちゃな文法の文章を、他人が読んでも一定の意味が伝わるように一般的な文法に沿って修正する、ということに似ているのかもしれないんですが、たとえば、今日(日付が変わっているのは確かなので今日ですが)みたいくつかの夢のひとつに、実家の友達3、4人(ゆうちゃんとかっぴとけんごとけーちゃんがいたと思います)とカフェだかなんだかそういうお店にいて、遅刻してまだ来ていないボブサップを、お前英語できるの?いや、ボブは身振り手振りでいけるよ、マジで?とかいう会話をしながら待っていたのですが、そうこうしているうちに手のひらにホットケーキをつけたボブサップがやってきて、握手したときにホットケーキが美味しそうだなあと思ったのですね。また、そうなってくると、自分の意図(哲学、美学、狙い、問題意識、倫理観、気持ち、感動、思い、メッセージ、などなどいろいろありますが)をよりスムーズに他者に伝えることに重点が置かれることになります。そしてよりスムーズに伝えるためになんらかの要点を設定してなおかつそれが要点であることを分かりやすくするために、なんらかの「作品」を構成する要素を、要点とそれを補足するもの、中心と周縁とに整理し、そのような視点において不必要と判断されたものを排除する必要が生じます。そういったプロセスを経て鍛えられ練られたものが、いわゆる「作品」から作者の意図がダイレクトに伝わってくる「良い」「作品」というわけです。このような、「作品」の文脈の整理とそれに伴う造形的な(もちろん非造形的な抽象的なものもありますが)調整はお互いに連動したプロセスなのですが、このプロセスは上で書いたような、「自分の考えは他者への意識において常に一般的な文法によって修正され続けている」ことに近いといえないでしょうか。そしておそらくこれらふたつのプロセスが共に(暗黙の?不可知の?不可視の?)前提にしていることは「何かを媒介に自己を他者に伝える」ということで、言語を介した人と人のやりとりにおいてはあまり意識されない問題が、「作品」を介した人と人のやりとりにおいては出てきます。私が思うのは、「作品」を介した人と人のやりとりは、言語を介した人と人のやりとりと比べてどう違うのか、何が違うのか、「作品」を介することの可能性を生かしきっているのか、ということです。そもそもそのようなプロセス自体に、それが成り立っている基盤への批判的な視線というものが内蔵され得るのかどうか、というのが気になるわけです。「作品」を介した人と人のやりとりなんてものは幻想に過ぎなくて、「作品」と人のやりとりをこそ観察してみるべきじゃないか、とも思うのです。と、ちょっと横道に逸れましたが、私もなにかしらの概念の意味を厳密に固定する、という意味合いでの定義、答えとしての定義はいらないし、なにかしらの概念の定義というものが流動的で可塑性に富むからこそ面白いことが起きると思っていますが、やはり何かを考えるときに自分の足場として暫定的にでも便宜的にでもなにかしらの定義は必要になります。そのときに問うという不安定なプロセス自体を足場にするほかないのかなあとも思います。やっぱり私もめんどくさくなって、別に定義しなくてもいいじゃん、とか思うのですが、別に定義しなくてもいいじゃん、と定義について「固定」してしまうのは、定義について自分の信念の対立の次元で議論する人たちと、同じ土俵の内と外の違いしかないのかもしれませんし、なにかもっとばしっとした言い方を誰か他の人から教えてほしいなあとも思います。。<追記>もちろん上に書いたような「作品」づくりの意味合いというか解釈みたいなものは、コトが終わってから事後的に、これは一体なんだったのだろう、という感じでなされるもので、「解釈」は解釈の対象が先にないと成り立たないのと同じかなあと思います。まず解釈があってから対象を生み出すのは「解釈」といえるのでしょうか。となると、意味を先取りしてそれをあらかじめ念頭に置いてなされる「作品」づくりとは、(悪い意味ではなくて)一体どういうのもなのかなあと気になります。<追記2>ここに書いたことを自分で読み返してみたのですが、いまひとつ考えたいことを考えられていない気がします。いつもそうなのですが、とりあえずにでも言葉にして積み重ねていければと思います。。