このまえ読み始めた、という一文の[まえ]がなぜ漢字ではないか、という一文の[なぜ]がどうして漢字ではないかというと、熟語ではない漢字が連続するのがなんか嫌だからで、ドフトエーフスキイのカラマーゾフの兄弟はやっと第二巻に入って、私の前の持ち主なのか、それとも最初の持ち主なのか、とにかく最初の持ち主と私のあいだの誰かだとは思うが、ボールペンで奥付に1968.6.4と書いてあって、最終ページに1968.6.9朝と書いてあって、これはそのあいだに読んだということなのだろうか。第一巻の奥付には31 may 68という日付の入った早稲田大学生協のレシートが挟まっていて、ボールペンでは1968.5.31と書いてあって、最終ページには1968.6.3とあるので、そのあいだに読んだということなのだと思う。第二巻でアリョーシャの兄、イワ"ンが街の料理屋「都」でアリョーシャに向かって語るはなしが面白くて、イワ"ンという一人の人間がボワーッと立ち上がってきていて

よしんば僕が人生に信を失い、愛する女に失望し、物の秩序というのをほんとうにすることが出来なくなったあげく、一切のものは混沌として呪われたる悪魔の世界だと確信して、人間の幻滅の恐ろしさをことごとく味わい尽くしたとしても、―それでも、僕は生きてゆきたい。一たんこの杯に口を当てた以上、それを征服し尽した後でなければ、決して口を放しやしない!しかし三十くらいになったら、まだ飲み干してしまわなくっても、必ず杯を棄てて行ってしまう…しかし、どこへ行くかわからない。

とか

ところが、果して人間は神というものを考えだした。しかし神がほんとうに存在するということが不思議なのじゃなくて、、そんな考えが、―神は必要なりという考えが、人間みたいな野蛮で意地悪な動物の頭に浮かんだ、ということが驚歎に値するのだ。

とか

で、僕は神を承認する、単に悦んで承認するばかりでなく、その叡智をも目的をも承認する(もっとも、我々には皆目分からないがね)。それから人生の秩序も意義も信じるし、我々をいつか結合してくれるとかいう永久の調和をも信じる。それから宇宙の努力の目標であり、かつ神とともにあるところの道(ことば)、また同時に神自身であるところの道を信じるよ。つまりまあ永遠というやつを信じるよ。まあ、このことについてはなんだのかんだのと、いろんな言葉が際限なく拵えてあるよ。どうだい、とにかく、僕はいい傾向に向かってるようだね、―おい?ところが、どうだい、ぎりぎり結着のところ、僕はこの神の世界を承認しないのだ。この世界が存在するということは知ってるけれど、それでも断じて許容することが出来ないのだ。僕は何も神を承認しないといってるんじゃないよ、いいかい。僕は神の創った世界、神の世界を承認しないのだ。どうしても甘んじて承認するわけにはいかないのだ。

とか

「今となっては僕は、何一つ理解しようとも思わない。僕は事実にとどまるつもりだ。僕はずっと前から理解すまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、すぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実にとどまろうと決心したのだ。」

とかいろいろ面白いことを言っているのだけれど、こういうふうな引用をして私は「小説の〜〜シリーズ」の保坂和志にでもなりたいのだろうか、なっているつもりなのだろうか、いや別になりたいとは思わないけれど、イワ"ンのいうように「何か理解しようと思うと、すぐに事実を曲げたくなるから」といって簡単には事実にとどまれるわけでもないのかもしれない。曲げたくなるのが事実ならば、いまとどまっているのは事実なのだろうか。とかいうような矛盾は、竹田青嗣現象学は思考の原理である」で言われているような、「現実言語」と「一般言語表象」を区別しないことで起こる「言語の謎」のひとつなのだろうか。もしそうなのであれば、それは矛盾ではないことになる、というか矛盾として見たい人にだけ矛盾に見えるものだということになる。イワ"ンは自分が事実だと思うものが「一般的な」事実であるかどうかとは無関係に、どうあがこうとも「イワ"ンの」事実からしかスタートできない。曲げたくなるのが事実ならば、その曲がり具合が「イワ"ンの」事実であって、とかいうのは、「一般的な」事実と「イワ"ンの」事実がまるごと比較可能であることを前提にした思考であって、ここにもひとつのトラップがあるような気がする。部分的にしか比較できないのなら、どこがどう比較対象として有効なのかの見極めが難しい気がするし、ケツメイシリップスライムとシーモを比べたとき、どちらかというとケツメイシとシーモはかなり近くてその二組の近さに比べるとリップスライムはどちらともあまり近くない気がするし、この前ふっと浮かんだことにケツメイシとかシーモとか湘南のなんとかとかなんとか家族とか三木道三へのアンサーソング(カバーじゃなくて?)を歌ってみたりとかそういうJヒップホップは現代版フォークではなかろうか、というのがあって、とはいってもただふっと浮かんだだけなので、これで誰かに叱られたりしたらたまったものではないし、別にディスりたいわけではなくて、昔のフォークが担っていた「メッセージ性」(メッセージ性?メッセージ性。)をいま担っているのがそういうJヒップホップのような気がするというだけで、とはいっても私は昔のフォークをそもそも知らず、ただのイメージで語っているので、なんの説得力もないはず。