神戸の山の方にしあわせの村というのがあるらしくて、阪急三宮とJR三宮のあいだの道路、マルイとそごうのあいだの道路、東遊園地公園と兵庫トヨタのあいだの道路を通って、東遊園地公園のおわりあたりにある歩道橋からも、「しあわせの村 〜km」という標識が見えるし、神戸高速鉄道新開地駅の東出口から出て山側に少し行って突き当たる大きな道路にも、「しあわせの村 〜km」という標識が見えるが、いまトイレから出てきたらちょうど女子バレーの日本対ポーランドの試合が日本の勝利で終わったところで、女子バレーの日本の試合を見るといろいろと思い出すというか、女子バレーの日本の試合を見たということに含まれるもろもろが連想によって無関係なこととどんどん勝手に繋がっていくが、そういう、なにかを見たらそのなにかと連想で繋がってしまうもろもろの記憶が増えていくのが歳をとるということなのかなあとも思うし、いまからテレビで「SP」を見なければいけないし、ブログは作品か、と問うたところで、その時点で、ブログとは何か、と、作品とは何か、とに問いが分裂してしまって、というか軸足の置き方が分かれてしまってそれがそのまま個々の結論の違い、信念の対立になってしまうのだろうか、なんかこういう事態はいろんなところで見かける気もするが、「作品」とかいう概念の境界なんてあってないようなものだろうし、というか「作品」という概念が可能にする作品と非作品の区別なんて、「作品」という概念に境界があることを前提にしない限り、有効に働かなくて、それなら○○は□□かとか問うより、○○には何ができるか○○で何が起きるか、と問うた方が楽しいんじゃないかしら、と思う。私はといえば、こういうのを書くのは、ここで書かれているようなことを「書く」ときと「思う」ときとでその内容が、というかプロセスが違うから、というのがあって、ここはここで「書く」ことそのものの独自のプロセスを楽しむというか、「思う」だけじゃすぐに忘れてしまって流れていってしまうようなことを「書く」ことで膨らましたりして遊べるし、それだけならまあブログという形式ではなく勝手にやっていればいいのだろうけど、やっぱりどこかの誰かが見るであろう、ということは動機に大きく関わっているし、だからこそはてなダイアリーのプライベートモードではなく誰でも見れるようにしているのであって、とはいってもブログでの「どこかの誰かが見るであろう」と、私がやっている無記名でのカセットの無料配布「ご自由にお持ちください。(便宜的にそう呼ぶ)」での「どこかの誰かが持っていくであろう」とは微妙に異なる気がするがあまり細かいところまではいまは分からないけど、いまちょっと思い立ってwikipediaの「作品」の項を見てみたが、書きかけの項目とのことで書きかけとの但し書き通りにあまりに貧弱な内容でびっくりもするが、そもそも「作品」について「発表を前提とせず、趣味として創作される場合も多いが、ここでは発表を前提としたものについて論述する。」必要について(対象を限定することで可能になる論述であることを明記したうえで、その限定された対象の範囲(空間)がどういうものであるかについて、そしてそれが人々に何を与えて、何から遠ざけているか)まず書かないと、「作品」について論述していることにすらならないと思うがどうだろうか、とかいってもwikipediaの内容について私がどうこういえるもんでもないのかもしれないが、実際にいまどうこういってしまってもいる。