(検索ワード云々の一件はとりあえず落着したのでここに書いてあることで二次災害というかこのことでいろんな人たちに影響が及んでしまっては申し訳ないので消去)とはいっても、ある作品を設置している最中にその会場の方がやってきて「○○を思い出すなあ、いや実際見たことはないんだけど」と言っていたり、休憩中に私も「○○さんのCDのインレットに紹介されていた〜〜という展示にも近いものがありますね」とか言ってしまったりしたのは、その作品の形式というか様式というのか(のつくりかけ)を見て反射的に思ったことでまあ世間話に近いものではあるけれど、このことは
松野孝一郎「内部観測とはなにか」序章「内部観測はなにか」より

(その1)一言、私の言い分もつけ加えたい

 われわれは何かを読んだり、聞いたりするとき、関心がある限り、それに一言つけ加えたくなる。この文を書きつつある私も例外ではない。一言つけ加えるには、先ず案件を特定し、それへの説明から始める。対象とする案件の設定には他ならぬその案件を特定する、という操作が前提になる。これが観測である。説明は答えを与えるが、問題までも与えることをしない。問題案件を与えるのがこの観測である。

で言われていることとなにか関係がありそうで、勇み足の「私の言い分のつけ加え」というか、観測なき「私の言い分のつけ加え」というか、精度の低い観測を前提にした「私の言い分のつけ加え」ということになるのだろうかどうなのだろうか。一言、私の言い分もつけ加えたくなったときに反射的に一言、私の言い分もつけ加えるのではなくて、少し思いとどまってみることが大事な気がしてきた。反射的に一言、私の言い分もつけ加えたいときって、ただ単に「私もそれに参加させてくれ!乗り遅れたくない!」という気持ちからだったりするし、参加するだけならいつでもすぐにでもあとからでもできるので、焦ってつまらんことを言うよりもちょっと我慢してじっくり見てみてからでも遅くはないような気がしてきたし、ここだけ取り出すと「内部観測」とは関係がなくなってしまうような気がする、といってもそもそも内部観測が何かはいまだによく分からない。どういうかたちにしろ、一言、私の言い分がつけ加えられたときにはそれに観測は含まれているし、その観測は新たな観測を含むであろうけれど、そのまま性急な「私の言い分のつけ加え」が続いていくならば、「観測」という部分は薄れていって「つけ加えのためのつけ加え」の部分が濃ゆくなっていくのではなかろうかどうだろうか。また「濃ゆく」という字面になにか違和感を覚えるのだけれどこれは合っているのだろうか。