今日はひょんなことからとあるわりと大規模な展覧会の設営をお手伝いに行って、私と同い年のとある作家さんの設営のお手伝いをして、別に具体名を出してもいいのだけれど、ここから先は具体的なことより一般的なことを書きたいと欲しているのであえて書かないという手を使うことにして、あとでまた書くかもしれないが、いまはそういうことを書きたいわけではなくて、ある作品を設置している最中にその会場の方がやってきて「○○を思い出すなあ、いや実際見たことはないんだけど」と言っていて、休憩中に私も「○○さんのCDのインレットに紹介されていた〜〜という展示にも近いものがありますね」とか言ってしまったりして、実際に体験したことすらないあるできごとの「情報」だけをたよりに目の前のものごとを経験し考えてしまうことの何と貧弱でつまらないことかと思う。そしてそれらは大抵の場合、なんの悪気もなく自然に行われているというのもさらに気持ち悪い。そもそも何かと何かの比較から知覚と思考をスタートするというような方法自体が(一般的な次元において)非常に粗い解像度でしか行われていないようにも思えるし、それが自分の体験ですらない情報レベルで行われるのは非常にまずいのではないかと思って気をつけるようにしている。なにかを見て「○○と似ている」と思うのはそれが体験レベルであっても情報レベルであっても、それだけではデータベースに照らし合わせただけの単なる不随意運動でしかなく、そこから先に進まないことにはほとんどなんの意味もなさないことに気をつけたい。どう似ているのかどこが似ているのかどう似ていないのかどこが似ていないのかに意味があるのであって、似ていること自体には意味がないし、つまりただ「似ている」ということだけをベースにした思考には何の発展も望めないだろうし、そこをベースにする限り対象とするできごととは一切の関係も持たない、自分の欲望に根ざしたただの自分語りにしかならないことに気をつけたいし、自分語りが何故悪い!とか逆ギレする人にならないように気をつけたい。良いとか悪いとかアリとかナシとか○とか×とかなんてことは、何も考えずに自分の立場(好き嫌いとか個性とか)に沿ってただ選べば済むだけのことであって、それを選ぶためだけに考えるなんてことにならないように気をつけたいし、どちらかといえば選ばない代わりに考える方を選びたい。