さっきなんとなくNHKをつけていたらやっていた(見るものがない時はとりあえずNHKをつけておくと間違いないと思っている。消してもいいんだけどNHKをつけていると面白いはなしが聞けたりする)「爆笑問題のニッポンの教養」での爆笑問題(さん、とつけてもいいがコンビ名とかユニット名にさん付けすると何か違和感がある)と精神科医斉藤環さんの対話のなかで、今年亡くなったカート・ヴォネガットという作家が「愛は負けるが親切は勝つ」ということを言ったか書いたかしているということを言っていて、斉藤さんが愛は諸刃の刃過ぎて(治療には、だったか)使いにくいとも言っていて、この言葉から考えてみるとどうやら私も「愛は負けるが親切は勝つ」と思っているようにも思えるが、あと確か斉藤さんは愛が過剰にある人の自戒として響く言葉だとも言っていて、それも確かに分かる気もするし、そもそも愛は何に負けて親切は何に勝つんだろうか、愛が負けるものと親切が勝つものは同じものなんだろうか、よく分からないけれどどうするんだろうか、というよりも精神分析がなぜ夢診断とか読心術とかそういう単純な(個々の)人間の心のウラ読みの技術みたいに思われているのか少し不思議に思うことが最近あって、とはいっても私にそれを解きほぐしていくほどの知識はないので、googleで「精神分析と心理学の違い」で検索してみたら出てきた
高速欲望 2007-03-09「なぜネットコミュニケーションは難しいのか 知ってほしいネットリテラシー」より

精神分析と心理学の違いは、それまでの物理学と量子力学の違いに似ている。従来の物理学が対象を客観的な位置から観察するという科学的理念を実現するのに対して、量子力学不確定性原理が示したことは、観察そのものが対象に影響を与えてしまい、客観的な位置を保つことが難しいことを明らかにしたことである。

心理学では科学的理念が目指され、いかに人間という対象を客観的に観察するかが問題になる。そこから行動心理学のように曖昧な内面でなく、客観的に観察しやすい行動を研究するような方法が生まれる。

精神分析では、医者が対象(患者)を観察するというような客観的な位置は存在しないことに自覚的であり、その上でいかに治療は可能かが大きな問題となる。治療の場とは、すでに医者も巻き込んだ場として形成され、対象(患者)は観察者の影響を受ける。

この場の形成こそがコミュニケーションである。精神分析に限らず、コミュニケーションにおいて純粋なメタ位置は存在しない。

精神分析と心理学の違いを、量子力学と物理学の違いに似ている、と説明しているのが面白いしイメージしやすいような気がするし、なによりいま気になっているのは、認知症はなぜ起こる「必要」があるのかということであるし、太古の人々に「介護」や「認知症」はあったのだろうかと一昨日ふとばあちゃんの病室で考えてみたが、医学の発達していない(というよりほとんどない?)太古の弱ってきた老人は弱ったらすぐに死んでしまうだろうし、介護するという観念もなくて、歩けなくなったり弱ったりしたら森深く捨てに行ったりしたのだろうか、とか考えてみてもよく分からないし、googleで調べてみたところで分かりそうもないので検索はしない。