母方のばあちゃんが大腿骨を骨折したのでこの一週間ずっと病院に行っていて、これからも行くことになるだろうが、月曜の夜に救急車で運ばれて応急の処置やら検査やら終わって病室に着いたのが日をまたいで1時くらいで、ちょっと前に死んだ父方のじいちゃんが夢に出てきて23日から旅行に行くからおみやげいるね?と訊いてきたのでとりあえずいると答えておいたが、母方のばあちゃんが病室に着いたのは日をまたいで23日の火曜日で、一時的に救急センターと脳神経科の兼用の病室に入って火曜と水曜はその病室にいて、木曜に整形外科の病室に引っ越しして、金曜が手術の日で午前10時半に病室を出て12時半くらいに戻って来たが、術後になぜか起き上がろうとして、私や看護婦さんたちに止められたり諭されたりするのだが、術後だから寝といた方がいいとか寝とかないと頭痛くなるとか足が痛いから起きれないよとか言っても、ばあちゃんにとっては起き上がっていま思い出した何らかの用事をしない理由には全くならなくて、むしろみんなで不当にベッドに縛り付けようとしているということになって、激怒して拗ねてしまいなかなか大変なことになったのだが、健康な人同士でももちろんあるけれど、認知症の進みつつあるばあちゃんと私たちとはあらゆる物事において共通の認識が成り立ちにくくなっていて、点滴の針は抜いてはいけないということよりも、なにやら知らん間に自分の手に付いていた異物を取り除く方が重要で、いくら大事なものだから触ったらだめだよと言ったところで、ばあちゃんは自分の納得のいくかたち(物語)でしか理解できなくて、それはほとんどの場合私たちの理解(物語)とは全く折り合わなくて、結局私たちとばあちゃんの共通の認識には至らず、ということはお互いがお互いの世界においてお互いを理不尽だと感じているということで、他の物事に気を取られて点滴のことが意識に登らなくなるまで待つしかないということで、何かしらの用事を思い出して(たいていは隣の部屋(というよりここではないどこか)に先生(といっても病院の先生というわけではなさそうだが)が待っているとか、(隣のナースステーションから聞こえてくる他の部屋からのナースコールが玄関のチャイムに聞こえるのか)お客さんが来るから応対しに行かないといけないとか、向こうの食卓に人を待たせているから行かないといけないとかで)いますぐにベッドを降りて行かなければならないと思ったら(ベッドを降りるという自分の意思を全うしたいから用事を思い出すのか、用事を思い出したからベッドを降りたいのかその境界は定かではなくて)その思念に取り憑かれたようになってしまって、さらにそれを咎められるならもっとそれにこだわることになってしまって、だんだん感情がフィードバックして激怒することになってしまうのだが、とにかくばあちゃんにとってはばあちゃんが感じてばあちゃんが思うところのものが全てで、その他の可能性自体が認知症によってなのか年をとるごとにそうなってくるのかは分からないが、ともかくそもそもの始めから想定されていなくて、ばあちゃんが天井に子供が3〜4人見えるというならそれはばあちゃんの世界において本当に見えているということで、そこのところから始めないとばあちゃんにとっても私たちにとっても、本当に意味のあるやり取りは有り得ない。ここには単純なダブルスタンダードの思考(その都度どちらかを自分の都合で使い分けるような)による相対主義(というより一/多(他?)の「多(他)」を前提にした、裏返しにしてカモフラージュされた自己を守るだけの独我論のようなもの?)のようなやり方では乗り越えられない壁がある。いろんな人がいるからとか言ってとりあえず上っ面だけは認めるふりをしながら、実際はリスクを侵してまで自分の側に引き寄せて理解しようとはしないような、右から左へ受け流すやり方では絶対に乗り越えられない。