とりあえず記しておきたいのは、
それが体験であろうと情報であろうと
どんな次元においてであっても、
ある物事同士を「比べて」
その「違い」にしか価値を見出そうとしないのは
どこまでもなにもかもを貧しくするだけだし
ひいてはみんなを不幸にするだけではなかろうか、ということ。
これを善しとするのであれば、
それが「どのように」善いのかはっきりと明確に述べる必要がある。
試しに私は私に向かってそれを明確に述べようとしてみるが
いまのところ、私は私を納得させることができない。
なぜ私は私を納得させることができないのだろうか、
もしそれを悪しとするのであれば、それはどのように悪いのだろうか。
いままでずっとひっかかっていたことが
だんだん明確な姿をとり始めている。
これは今後の私の課題である。


私の感情だけみれば、
それが体験であろうと情報であろうと
どんな次元においてであっても、
ある物事同士を「比べて」
その「違い」にしか価値を見出そうとしないのは
あまりに醜悪で吐き気がする、と
吐き気なんてしなくてもあえてそう言いたい。
それが体験であろうと情報であろうと
どんな次元においてであっても、
ある物事同士を「比べて」
その「違い」に自分の欲望を託して知らんぷりしているのは
あまりに醜悪で吐き気がする、と
吐き気なんてしなくてもあえてそう言いたい。
はっきりいって、これは、どう考えても、おかしい。
物事の価値をその都度ゼロから自分で組み立てることを
ひとつの労働だと捉えて(形式的)合理性によって節約しようとするのは
はっきりいって、どう考えても、おかしい。
そしてその労働を、個々の物事とそれらの関係、ないしはその起源に押し付けること、
または、それらの問題を労働と貨幣の交換によって簡単に済まそうとしてしまうことは
はっきりいって、どう考えても、間違っている。
これが一般的な通説、常識であって
変えられない(変えたくない)ものならば、
私にできることはもう何もない。
そんなこと言うのなら、その物事で納得させてみろ、と言われそうだが、
もうすでにそういう次元の問題ではないし、
そういう思考回路そのものについて問題にしたい、と思う。
そしてこれは、個々の物事とそれらの関係についての問題ではなく
人間が人間であることの問題であるように思える。
いままでずっとずっとひっかかっていたことが
だんだん明確な姿をとり始めている。
(一応書いておくが、私は個々の人や出来事についてとやかく言いたいわけではなくて
それが何に関係していて何を表しているかだけに興味がある)
これは今後の私の課題である。
納得できないことがあるというのはとても楽しいことだと思う。