2007-09-26に書いたことについて、「音楽の自明性への懐疑」とのことで、
まさしくそのとおりだと思うのですが、このことばでまた思ったことがありまして、
「音楽の自明性」といったときに、結局、何の自明性なのか分からないのも困りものですね。
「音楽」という動きというかプロセスというか仕組みそれ自体を
純粋に人間の行為と切り離して取り出す限りは自明っぽい感じなのですが、
(いま、自明っぽいという響きがなんだか物珍しくていいなあと思ったのですが)
それが個々の状況、場で成り立つときになんだか分からない力技が行われている気がします。
個々の状況、場で成り立つときの不透明さというか足場のなさを
そのときだけ都合良く人間の行為と切り離して解釈してどうにかしのいでしまうといいますか。
個々の(小文字の?)「音楽」と一般概念としての(大文字の?)「音楽」の
なんだか分からないぐにゃぐにゃした結びつきといいますか。
(ここまでくるとそれはもう「音楽」の仕事ではなく
「哲学」の仕事なんじゃないか、もうプロに任せておけと
どこかから聞こえてきそうですが、
専門家によるなんらかの知の達成に触れたとしても、それを自分の問題だと思っていないと
理解すらおぼつかなく、その上なんの意味も為さないので、
とにかく自分なりにでも頑張って考えることにしています。
私には音楽的な楽しみよりもこういうことの方がより切実な問題です。)


多くの先人たちが言っているように、なんでも突き詰めると
「選ぶ」ことでしかない、というところで行き詰まるのですが、
「音楽」という動きというかプロセスというか仕組みそれ自体に乗っかって
なにかしらを「選ぶ」、というコトそのものが「音楽」だとすると
「音楽」はもう「選ぶ」ということの一形態であるということになってしまいます。
音について「選ぶ」ということになります。
個々の[なにを]「選ぶ」かの根拠はどこまで遡ろうとも個々のなかには見出しようのないもので、
そうなると個々の[なにを]「選ぶ」かの根拠は、[「選ぶ」ことそのもの]に求めるしかなくなります。
これを「選んだ」から、これを「選びたかった」のだ、と。


消費者の求めるデザイン、などとよく言われますが
消費者(というより人間)は抽象概念としての求めるデザインを具体的にイメージすることなどできません。
目の前にあるものを見て、求めていたのかいなかったのか「選ぶ」だけです。
なので選ばれやすいものが消費者の求めるデザインということになります。
「選ばれやすい」基準を新たに作ることが消費者の求めるデザインをするということになります。
「選ばれやすい」基準っていったい何なのでしょうか。


根拠を[「選ぶ」ことそのもの]に求めるといってももいろんな次元があると思うのですが
基本的に人間は[「選ぶ」ことそのもの]に含まれている
いままでの「選択履歴」でもって、いまという未来の選択を決めているようです。
なんらかの選択を迫られるたびに、
「自分はどれでも選ぶことができてしまう!」と途方に暮れるよりも、
そちらの方が合理的だからです。
だからといって「選ばない」方に行くのも考えものです。
「選ばない」ということそのものが「選ぶ」こととの違いにおいてしか成り立たないため、
「選ばない」ために「選ぶ」ことを必要としてしまうことになるからです。
また、「選ばない」ことを「選ぶ」ことにもなってしまいます。
ジョン・ケージは「4'33"」を「作曲」しましたが
「選ばない」ことを「選ぶ」ところで
踏みとどまったのか、踏みとどまるしかなかったのか
私には分かりません。


また、好きか嫌いか、肌に合うか合わないか、などといってみても、
結局は好きか嫌いか、肌に合うか合わないか、を選んでいるだけであって
はなしは最初に戻ってしまいます。
好き/嫌いを先天的な変えられない個性として
選択の根拠にしてしまう人も多いですが
好き/嫌いは本当にそれ以上遡れない地点なのでしょうか。
最後は同語反復でもって強引に根拠付けるしかないのでしょうか。
そもそもなぜここまで、選ぶこと、根拠付けることに縛られているのでしょうか。


なんだかよく分からなくなってしまいましたが、つまるところ私は
「選び方の違いゲーム」という幻想の次元での遊びに
飽きてしまったけれども、それからどうしたら面白いか分からず
ただ途方に暮れているだけなのでしょう。