福居伸宏さんのÜbungsplatz〔練習場〕
2007-09-26 平行世界と垂直世界
「■ATAK | diary/2007/08 より」より

ATAK | diary/2007/08 より

本というものについて、データのようにフッ飛んだりしないし寝っ転がって読めるし持ち運べるからメディア特性として強いみたいなのは、本じゃなくて紙の特性だと思うんですね。紙と書くもの/書かれるもの、ということについて考えれば、それは変わらないなんていうはずはないわけで、例えばHDに残すということが可能になった時点でメモとタイプすることを選択している、つまり紙に書くという行為の意味は変わっているわけですよね、当然ながら。これはメモしよう、とか携帯のメールに入れておこうとかあるわけでしょう。

__

では本という形態についてはどうかというと僕は変わらないものはないと思っている人間なんで、読むということが一定量の紙の束を持ってフンフンするということを指すのではない、ということになる可能性は高いと思うんですね。

__

だから本が全くなくならないかどうかというのは、知りようもない未来の話なのであまりしても意味がないと思うんだけど、書く、読むという行為が紙という媒介を仲介しないときに何が起こるのかということは話す意味がある。で、少し戻ると変わらないであろう、故にそのメディアを愛すという人が面白いものを作る可能性は極めて低い、というのが私見です。

__

音楽を愛してるとか言ってるバカが下らない反動ロックとかうんこフォークみたいなのを作ってることが典型なんだけど、本とか文学というものは永続的に残るだろうしそれ故に愛しているという人が面白いものを書く可能性は低いし、創る人間が変わらないとか残るということを愛せるという気持ちはあまり分からない。

__

話を音楽に置き換えるとよく取材とかで渋谷さんが考える未来の音楽は?みたいな問いがあるけど少なくとも僕が生きている間に(僕は自分が生きている間のことにしかあまり興味がない。ということが最近はっきりしてきた)音楽は変わらないだろうし、それはつまり人はどうやってもメロディーとその他という聴き方をするだろうし、そう解釈できないものは認識しない/しようとしないというのが多勢という状況は変わらないだろうということなんだけど、つまりそれが音楽というメディアの特性で僕は憎んでいる。故に作る。という感じなんですね。


http://www.atak.jp/diary/2007/08/30.html

・「変わらないであろう」→「永続的に残る」→「故にそのメディアを愛すという人が面白いものを作る可能性は極めて低い」

・「そう解釈できないものは認識しない/しようとしないというのが多勢という状況は変わらないだろう」→しかし→「故に作る」

 (メディアの特性[テクノロジーの側]を、メディアが産み出すものの認識と解釈[人間の側]を、拡張するために)

という渋谷慶一郎さんの考えに、とても共感します。

また、「そのメディアを愛すという人が面白いものを作る可能性は極めて低い」という考え方は、

当然のことながら、古いメディアだけではなく、いま現在において、

新しい(と思われている)メディアにも、同時にあてはまることだと思います。

結果だけみれば、結果があるとする限りにおいてだが
引用の引用をしたかったから引用したみたいになってしまったが、
何を言いたかったかを先取りしてみると
「人はどうやってもメロディーとその他という聴き方をするだろうし、
そう解釈できないものは認識しない/しようとしない」という
音楽のメディアとしての特性を憎むのも分かるけれど、それよりも
文字通り、人が音を楽しめば音楽になるということが
どういうことなのか、なぜなのか
そもそもなぜ必要なのかがさっぱり分からなくて困っているし
一般的にはそんなこと分かる必要もないと思われているだろうことも
それがどういうことなのか、なぜなのか
そもそもなぜ必要なのかがさっぱり分からなくて困っている。


音楽は音によって成り立っているだとか
音楽は耳によって成り立っているだとか
音楽は音と耳のあいだだとか
音楽は音のかたち(シニフィアン)だとか
音楽は音のいみ(シニフィエ)だとか
音楽は音のかたちと音のいみのあいだだとか
そういうのは頑張れば分からなくもないけれど
それら(の仕組み)がどういうふうに使われているのか
そもそもなぜ必要なのかがさっぱり分からなくて困っているし
一般的にはそんなこと分かる必要もないと思われているだろうことも
それがどういうことなのか、なぜなのか
そもそもなぜ必要なのかがさっぱり分からなくて困っている。
音楽を愛すというのは、つまり
自分が音楽に求めるものを愛すということであって、
音楽を直接愛することなんてできない。
自分の欲望がその仕組み上、自分を裏切[れ]ないことを
音楽は自分を裏切[ら]ないことだと思いこむからこそ
音楽と自分の欲望を識別できないくらいにごちゃまぜにしてしまうからこそ
音楽を一方的に愛することが可能になる。
がしかし、
自分の欲望はその仕組み上、自分を裏切れないが
それが前提にしている仕組み自体は自分を裏切ることができる。
というか、これは裏切る/裏切ら(れ)ないではイメージしづらい。
人間という仕組みはその欲望を裏切らないためには
仕組みそのものを変えることも厭わない仕組みだということである。
とかいうのは別に私が偉そうに言えることでもないし
たぶんなんかの本で読んだ誰かの受け売りだと思う。


つまるところ
「音楽」が定義できないのは
個々のレベルにおいて音楽に求めるものがそのまま音楽で
みんなそれぞれ聴きたいものしか聴かないからであって、
それでもなお定義しようとするならば、
「音楽」とは人間が聴きたい(と欲望する)こと/ものである、
とでもなるのだろうか。
じゃあ、「人間が聴きたい(と欲望する)こと/もの」ってなんだろうか。
「人間が聴きたい(と欲望する)こと/もの」を聴きたい(と欲望する)こと/ものだろうか。
じゃあ、「「人間が聴きたい(と欲望する)こと/もの」を聴きたい(と欲望する)こと/もの」ってなんだろうか。
「「人間が聴きたい(と欲望する)こと/もの」を聴きたい(と欲望する)こと/もの」を聴きたい(と欲望する)こと/ものだろうか。
こういう無限のループ、堂々巡り、同語反復をストップするために
自分の欲望とそれが成り立つ仕組みを見えないものとして隠してしまう必要が生じる。
自分で見えないようにしているくせに、見えないからこそ自明だと思い込む必要が生じる。
とかいうのは別に私が偉そうに言えることでもないし
たぶんなんかの本で読んだ誰かの受け売りだと思う。


だから、「音楽」とはかくかくしかじかのこと/ものである、ということは
自分が聴きたいと欲望すること/ものとはかくかくしかじかのこと/ものである、と同じ意味であるけれども、
だからといって、
「音楽」とは自分というひとつの仕組みにおいて自分が聴きたいと欲望すること/ものである
などといってみるのもこれとあまり変わりはない。
重要なのは、自分と自分の欲望のあいだにおいて
自分が聴きたいと思わない(と欲望する?)こと/ものも「音楽」であり得るということ。
これはいったいどういうことなのだろうか。
自分の聴きたい音楽を聴くために自分で音楽をやるという人がいるが
私は自分の聴きたい音楽を聴くために自分で音楽をやるわけではない。
これはいったいどういうことなのだろうか。
私には、聴きたいもの見たいもの食べたいもの匂いたいもの触りたいものなんてなくて
私には、聴こえるもの見えるもの食べるもの匂うもの触れるものしかない、なんて
私には、分かるわけもないが、こういうことは自分で決めないといけないものらしい。