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2007-09-20で
「労働を節約し商品化するとはつまり、選択に至るプロセスとその結果とを意図的に混同し、」
と書いたけれど、どちらかというと混同ではなくて、強引な区別によって切り離してしまうことなのかもしれない。
(音楽)である≒(音楽)であってほしい≒(音楽)である必要がある
(音楽)ではない≒(音楽)であってほしくない≒(音楽)である必要はない
私の場合、
「(音楽)である必要はない」ために「(音楽)である必要がある」し、同時に
「(音楽)である必要がある」ために「(音楽)である必要はない」ようなところがある。
( )である/( )ではない、という問いは
それが、ある極からある極までの幅、つまり
分類上の振幅の設定についての問題である限り無意味である。
たとえば、すべての( )は( )である、と決めてみる。
すると、分類上の振幅としての( )は働く場を失って消える。
そのため、( )であろうとする限り、
もうひとつの極としての( )ではないものを必要とすることになる。
( )であるものと( )ではないものを聖別する神のような存在がいるわけではなく、
それぞれの人間がそれぞれに、あれに比べたらこっちの方が( )である、と主張しているにすぎない。
また、その逆も然り。
いま( )だとされているものは、非( )では[ない]ものだと考えて差し支えない。
また、( )によって為されたものであるかどうかが( )/非( )の境界だと考えるのは
( )が( )によって為されるものであるという前提に立ったものであって、
その前提それ自体を説明するものは、この考えの中には含まれていない。
また、未分化な状態、混沌としての( )なるものから
分化された、秩序としての( )が切り出されてくる、と考えるのは
切り出し、すなわち聖別を施すことで、混沌から秩序という人間的価値を作り出す、つまり
混沌と秩序に価値の差異を認めるという前提に立ったものであって、
その前提それ自体を説明するものは、この考えの中には含まれていない。
また、対立自体を、「/」を解消しようとしても
すべては( )なのか/すべては( )なのか、
どちらに向かって解消していくのか、という対立が生まれる。
結局は( )でもなく( )でもない純粋な経験として解消していくのだろうか。
どういう必要があって( )と他のもろもろを区別しているのだろうか。
どういう場合において
( )である/( )ではない、と言う問いは
有意味になるのだろうか。
それだけが気になる。
無意味だとして遠ざけてしまうよりも、それが有意味になる場合を知りたい。
( )になにができるのか、という問いと
( )的思考/行為になにができるのか、という問いは
なにか違うものなのだろうか。