あーそういえば日付が一日づつずれているがもうこの際どうでもよい。あとから見る時にはそんなの気にならないだろう。16時ごろ家を出て自転車で三宮方面へ。いつもの海側ではなく山側を通ってゆく。なんとなく方角だけ気にしながら走るとトリトンカフェが見える十字路に出る。そこから山側に登ってしばらく走りCAP HOUSEへ。二階へ上がるとすぐ目の前の踊り場ともいえない空間にある大きなテーブルでなにやら会議中。見て見ぬふりをしながら右手に進みまずは山側ギャラリーへ。[PRINT IT OUT-展示のためのレッスン-]藤本由紀夫展「LESSON 1913 -1913年のレッスン-」をみる。ウィトゲンシュタインデュシャンなどのことばの引用や自身のメモ、新聞記事などにさらに付箋で自筆のキャプションがついている。今年3カ所の美術館で行われた大規模な藤本由紀夫展より(和歌山は見ずじまい)こちらの方が藤本由紀夫の思考にダイレクトに触れるという意味で興味深かった。80年代後半に使われた本人のメモ帳が大量に置いてあってそれを見るだけでも面白いと思う。次に海側ギャラリーで池田朗子展 「souvenir」をみる。二カ所の入り口があってどちらからみるかでまったく見え方が違う。チラシ置き場を整理していたスタッフの方にチラシを渡して次の目的地へ。なんとかというギャラリーを昨日みた地図のだいたいの感じで探したが見つからなかくて(見つからなかくて?)、適当に自転車で走っていたらギャラリー開というのを発見して、看板に貼ってあったいまやっている吉井秀文展のDMを見てよさげなので入ってみる。風景を線だけで描いたドローイングなのだけれどその線に沿ってところどころ紙を折った跡があってそれが面白くてなんだか気になった。次はその近所のギャラリーPAXREXにてTakao Maruyama展「ミラノの光に導かれて」をみる。ミラノで撮影し、ミラノで現像し、ミラノでプリントしたらしいが技術的なことが分からない私にはその違いは見出せなかった。空気の乾燥したアメリカの方がギターの鳴りがいい、とかそういうことなのだろうか。被写体が普段見かけることのない花ばかりなのも気になった。目だけで見るぶんにはとても綺麗だしすごいと思う。絵画としての写真という印象。別に網膜的な次元が悪いわけではなくて、どうせ最終的には網膜は通らないと知覚できないので、そのことをどう捉えるかが難しいような気がする。でも別にTakao Maruyamaさんの写真に個別にどうこういいたわけではないし、いまの私ではどうこういえるほど考えることができない。でもどっちにしても、見えるものが全て、見えないものが全て、といったような、どっちがにわとりでどっちがたまごか、という思考はぐるぐるまわるだけでどこにも辿り着かないし、辿り着かないからといって自分にとって矛盾のない方に避難するのも結局は一時的ではない一時しのぎにしかならない。次はそのまた近所のギャラリーヴィーにてもりまゆみ作品展「日本晴れ」をみる。一見ラフな今っぽいよくあるドローイングかと思うがそこにあるストーリーはいい意味で素朴なもので、そういう意味でちょっと違うバランスのものだと思った。ほとんど彩色していない皮むき器や一輪車や計量スプーンなんかをさらっと描いたものが特に面白いと思った。こういうさらっと描いたものは数が多くていちいちタイトルをつけるとうざったいのではないか、という理由から付けていないらしいが、本人の中ではそれぞれにタイトルとストーリー(というかシチュエーションというか)があるらしいことが、もりまゆみさん本人と話して判明した。オーナーの方と三人でしばらく大きなキャンバス三枚分の作品やオオカミを描いた作品や時効警察やスシ王子のことなどはなして、チラシを渡しておいとまする。チラシを渡す時に今回私がやろうとしていることなど話すと理解を示してくれて新たなアイデアなども出してもらう。誰にでもできて誰にでも分かることは「一般的」であることとはすこし違う。そのあと、vivo,vabookstoreへ。じっくり本を眺めたのち、チラシを渡す時に今回私がやろうとしていることなど話すと理解を示してくれて新たなアイデアなども出してもらう。誰にでもできて誰にでも分かることは「一般的」であることとはすこし違う。しかし、音楽におけるホワイトキューブの問題もあるのでこのへんは微妙なところでもある。悪い意味での「なんでもあり」は際限がないというか結局やりっぱなしになるというかコントになるというかつまるところあまり楽しくないような気がする。夜はとにかく「三太」用の文章の推敲。