むかしの美術手帖に載っていた「マイク ビドロ」が気になる。
昨日も天牛書店にてサンプリング・アート特集号の美術手帖621号を手に入れた。
椹木野衣さんの「サンプリング・アート-それでも人は忘れるのだということ-」という文章が非常に面白かった。

しかし実にビドロの作品が評価されるのはこの交換(=比較)の瞬間にのみその出現が確認されるオリジナルとの微細なる差異によってなのである。それがたんに贋作制作なのであれば、この交換におけるオリジナルとの差異の消去、すなわち完全な等価交換へむけてのプラトン主義的な運動こそがその本来となるところであろう。あえて数量的に言うが、それが九十九・九パーセントまでオリジナル(=百パーセント)に接近しえたとしても、そこに現れる〇・一パーセントは贋作者にとっては消しがたい消極的差異として厳然と存在している。この決して消去できない消極的なる〇・一パーセントを積極的なそれに反転したものこそが非本質的少数性のことなのであり、ビドロはまさにこれを最大限に活用している。

私がなぜビドロが気になるかもちょっと分かって面白かった。
私は、ひとりの贋作者として
「フィールド・レコーディング(音を記録すること)」によって写しとられた「世界」が
物理的にも(認識論的にも?)どうしても「世界'」に[なってしまう]ことを問題にしている。
その「'」を贋作者から「贋」を取るための言い訳に使っても「音楽」とか「個」に回収されるだけなので
その「'」をまずはあくまでも贋作者としての消極的差異として考えてみること。


そういえばアイデアル・コピーってまだ活動しているのだろうか。