またもや佐々木敦「テクノ/ロジカル/音楽論」をパラパラと読んでいたら
「第四章「ノイズ」から「グリッチ」へ」で
オヴァルの次に刀根康尚が紹介されていたので改めて読んでみた。
気になったのはなにかを記録すること、空間と時間を切り取ること、
それらをひとつのメディアに固定することについてだった。
刀根康尚はスコッチテープを貼付けたCDのスキップによるパフォーマンスを
収録したCD「Solo for Wounded CD」を発表しているが
ここでは、CDプレイヤーの「誤作動」によって生まれた音が録音され、またCDになっていて
つまり、CDプレイヤーの「誤作動」によって生まれた音が収録されたCDを
私たちは「正常な作動」のもと聴くわけであって
結局はそのプロセスの最後が「正常な作動」で終わるところが
なにかしら象徴的というか皮肉めいたものを感じさせる。
もちろん刀根がこのことに意識的でないわけはなく「Solo for Wounded CD」は
その元となったパフォーマンス「music for 2 cd players」の
初演10周年記念で行われたパフォーマンスをさらにスタジオで再現したものらしく
初演から10年経ってやっと音源として固定されたことからそれは少しだけ窺い知れるが
もう少し具体的にこの10年に為されたであろう思考を知りたいと思った。
2001年に芦屋市立美術博物館で行われたパフォーマンスで
実際にこの「music for 2 cd players」を観たことがあるが
確かに2つのCDプレイヤーでただCDがスキップしているだけで
時々ひとつのところでスキップがループ(?)すると
CDプレイヤーにちょっと手を触れてCDスキップが滞らないようにするという感じだった。
もうひとつ面白かったのは中ザワヒデキ、松井茂を中心とした
機関紙「方法」に寄稿された刀根の文章で、ここで全文読めるが引用というかコピペすると
http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/houhou/haisinsi/20011231hh012.html

 音楽にかんしては、音楽が芸術から分離することによってしか音楽でなく、芸術としての音楽は、芸術であるという負債を負うことによってのみ芸術たりうるが、音楽はその負債を放棄することで音楽である、という現状認識が必要なのだ。この負債は音楽を放棄することを要求するが、芸術家である限りかれが芸術家であるというまさにその理由によって、社会にたいしてこの負債を維持することによって、芸術と音楽の分離を拒絶することが要求されているのだ。私がサウンド・アートと呼ぶものはそのようなものを指す。

というもので、ここで刀根は
音楽としての音楽と、芸術としての音楽を的確に言い表している。
これは大袈裟でも妄想でもなんでもなく、といちおう最初に断っておくが
私はなんらかの演奏というかなんらかの活動をする度に
「音楽」から[芸術と分離すること]を求められ、また
「芸術(負債としての)」から[音楽を放棄すること]を求められていて
常にその板挟みになってきた。
私がかつて書いた文章のある箇所、
「演奏」か「パフォーマンス」かという区別への違和感を書いたくだりに
それは少しだけだが顕われている。
私はその板挟みに遭遇する度に、双方を取りなしなだめすかして
なんとかしのいできたし、これからもそうするしかないと思っている。
「どっちでもあるし、どっちでもない!」と言うことに全く意味はなく
どっちでもあるし、どっちでもないことを体現するしかない。
そこになにかあることを知るには、それに躓いて転ぶしかない、のかもしれない。