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箇条書きマジック?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%87%E6%9D%A1%E6%9B%B8%E3%81%8D%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF
8/27〜8/30のあいだ(順不同)
●鈍行列車で12時間移動の往復
●佐々木正人「レイアウトの法則-アートとアフォーダンス-」をやっと読み始める。
視点を変えるというか対象とするものの位相を変えるというか
面白いとは思いつつもぼんやりと読み進める。
第一章はやたらと「レイアウト」という言葉が出てくる。
●鈍行列車からの車窓を眺めていたら、Chemical Brothers「Starguitar」のPVをもじって
音と映像の関係が全く逆のものを作ったらバカバカしいものができそうな気がしたが絶対やらない。
●レーモン・ルーセル「ロクス・ソルス」も読み始める。
ダイヤモンドのような輝きを放つ水に浮かぶ政治家の脳と神経に猫が電流を流したりする。
「アフリカの印象」に比べると、ひとつのエピソード毎に
ボケとツッコミがコンパクトにまとまっていて読みやすいかもしれない。
●木村敏「分裂病と他者」もやっと三章まで読み進める。
替玉妄想のくだりで興味深い引用が。
ウラジミール・ジャンケレヴィッチ「死」より
死は生の終焉であり、生の終焉は非生の始まり、あるいは、後生を信ずるものにとっては、後生の始まりだ。それ以上のなにものでもない。ところがなにものかが欠けている。無ではないなにものか。つまり、ほとんど無なもの、なんでもなくすべてであり、すべてで同時に無である捉え難いなにものかだ。彼岸の無と、すでに問題になった彼岸のすべてとの間で、ほとんど無がここでわれわれの関心をひいているものではないだろうか。そのほとんど無とは、瞬間、つまり、通過という事実そのものであり、通過という出来事だ。
ジョン・ケージ「4分33秒」と共に語られることの多い
リュック・フェラーリの作品のタイトルは
「 Presque rien No. 1 'Le Lever du jour au bord de la mer' 」であり
Presque rien(プレスク・リアン)=ほとんど無というキーワードでジャンケレヴィッチとつながる。
フェラーリにとっての、ほとんど無、瞬間、つまり、通過という事実そのものであり、通過という出来事は
マイクからレコーダーへの音の通過という事実そのものであり、通過という出来事ではないだろうか。
マイクに入る前の「世界」でもレコーダーに記録された「世界'」でもなく
その通過という事実そのものであり、通過という出来事に目を向けてみると
ケージとフェラーリがほとんど同じことをやっていることが理解できる。
厳密に言うとほとんど同じことをやっているというよりも、
あるひとつの出来事の表と裏、前と後、右と左でもなんでもいいが、
とにかくふたつでひとつの出来事である。
●行きの鈍行列車の岡山だか広島あたりまで、
大学(院?)生らしき男女の先輩と後輩で構成される集団に取り囲まれるかたちで座るはめに。
とにかくひたすらずっと今まで付き合った人数とかラブホテルに行った回数とかを互いに質問しあっていて
なにもこんなはなしを列車の中でしなくても、という突っ込みをするやつもいるけれど
(周りにいるのは)別にもう二度と会うこともない人ばっかりだからいいじゃん、という答えで落ち着いていて
自分が恥ずかしいとかそういう自分への意識のベクトルはあるけれど
見ず知らずの大学生のくだらないはなしを聞かされる他人への意識のベクトルは欠落している。
とはいってもかなりの高い純度で彼(彼女)らは大学生「らしい」のが面白かった。
私が通っていた大学の同じクラスにもこういう「らしい」人が居たような気もする。
こういう人たちがこの先どういう人生を歩むのか全く想像できない。
その都度の「らしい」振る舞いをして幸せに(皮肉ではなく)死んでいくのだと思う。
●帰りの鈍行列車でおでこに剃り込みを入れた外国人高校生を見る。
たぶんハーフではなく100%の外国人だったと思う。
そのあとひとしきり中学時代のことを思い出した。
ひとつ、ふたつ上あたりまではヤンキーばっかりで大変だった。
そういえば高校の頃、友人三人とデパートに行ったら
長崎連合を名乗る二人組に「ケンカしようぜ」と絡まれたが
とりあえず謝ったら急にフレンドリーになり狐につままれた思いをした。
●地元の湯温が熱すぎる温泉に行った折に友達が前を隠しているのを見て、
前を隠すのは自分のためでなく他人のためだ、と突然思い至る。
別に見たくもないものを見なくても見えるのを防ぐのである。
だが私は面倒臭いので隠さない。
これも他人への意識のベクトルかもしれない。
●なんの因果かムーンスター(月星)というシューズメーカーの飲み会(打ち上げ?)に紛れ込んでしまう。
若い人が多いというか気持ちの若い人が多くて勢いがあるような気がした。
フットサルシューズなどのデザイナーの方や革靴のデザイナーの方とお話をさせてもらうが
30前で今の仕事に転職した30ちょっと過ぎの革靴のデザイナーの方はかなり妙な人で、
理想は「武士」だそうで、デザインの修行以外にも体を鍛えたりしているらしい。
だからかどうかは分からないが風貌も武士っぽかったような気もする。
デザインとアートの共通点は「つくること」だが、
デザインが適正解を出す、答えを出すものであるのに対して
アートはあくまでも問題提起、問い(の過程)を出すものでしかない。
それぞれの「歴史」への態度も少し違うかもしれない。
それらが混じり合う部分もあるけれど、
それぞれの分類を保持しつつ存在し得るのは網膜的、鼓膜的な領域でしかないと思う。
そういえばアートと芸術はなんか違うのだろうか。
なんとなく、芸術からなんらかの限定を施されたものがアート、というイメージだ。
そういえば同じ日、ナガオカケンメイさんにも遭遇した。