半年くらい前に小さいスケッチブックと鉛筆1ダースと鉛筆削りを無印で買っていたのを思い出して外へ出かける度に描いてみたりしているのだがそもそも何故小さいスケッチブックと鉛筆1ダースと鉛筆削りを無印で買おうと思ったかというと道ばたに捨ててあるいろんなゴミにもそれを捨てた人がいてゴミというよりもいまはゴミでかつてはゴミではなかったものとそれを捨てた人との関係があったんだなあとふと思ってそれらをデジカメで撮ろうかそれともポラロイドがいいかそれともスケッチした方がいいかという経緯があってデジカメとポラロイドはデジカメとスケッチよりは近くて撮ると描くの違いはあらゆる意味で大きくてものすごく単純にいって意味の充満した状態から削っていくか何も意味のないところから付け足していくかという感じの違いがあると思うのだが撮れてしまったものが全てであることと描かれたものが全てであることの違いでもあってとかいうのはスケッチブックのはなしとはあまり関係がなくてなぜデジカメやポラロイドはまだしもなぜスケッチかというと小中高通して図画工作の授業が大嫌いで絵を描くことが大嫌いだった私の下手な絵に生じるであろう対象を捉えきれないこと伝えきれないことというノイズに興味があったからなのだがどっちみちスケッチしているのは道ばたのゴミではなく側溝とか船を繋いでおくビット(と呼ぶらしいことをいま調べた)とか街灯とか風力発電の風車とか遠くに見える自動販売機とかコンクリートの壁と壁ごしに見える木の葉っぱとかで出来はやはり散々なものだがどうやら単純なかたちのものを1ページにひとつだけの方がいいようで風景全体を描くなんてことはこの先もできないだろうしする気もないがいま突然思いついたことに全ての表れという意味合いでの表現は私が見て私がそのなかに存在しているものもしくはみんなが見てみんながそのなかに存在しているものもしくは、、、という意味合いでの世界を借景にして成り立っているということでもうひとつそれとは全然関係ないかもしれないがとここで夜ご飯を作る時間になったので一旦appleworksで保存していままたファイルを開いてみたがもうひとつ書こうとしたことを忘れてしまっていて最初から読み直してみても思い出せなくて借景というのは参照元として基盤としての風景を借りるという言葉が面白いなあと思っただけでこのへんで諦めてyoutubeakufenのライブを発見して見てみたけど低音がドンドコ鳴っているだけでそれ以外の音域があまり聴こえなくてなんのことやらよく分からないのだが何年か前に京都精華大学akufenとsndとvladislav delayのライブを見に行った時にみんな座って聴いていて何人かは踊っていたが終演後その踊っていた人が何で踊らないんだよとか一人で憤慨していてそんなこと言っても確かこの時はメトロでも同じメンツのイベントが組まれていてそっちがダンス(ディスコだったか?)で京都精華大学の方がエクスペリメンタルという風になっていてakufenとsndとvladislav delayは見たいけど踊りたくないという人達が集まっているのだからしょうがないと5年経ったいまさら思ってakufenのライブ映像を見ていたらその関連映像でmotorのライブというのがあってaudio.nlのmotor?ロシアの?と驚きながら見てみるとなんかバカっぽいというかそれを通り越して完全にバカになっていて元々微妙にバカっぽいところはあったけどとうとうバカになってしまったかというか2人組だったっけと思って調べてみたら別のmotorでクラブカルチャーなどと軽々しく呼べるほど私はクラブに行ってなくてせいぜい3、4回くらいだがこういう世界ってなんて快楽主義なんだろうとかいまさら思って別に悪い意味ではなくていま出てる音に対して作者はどういうつもりかとかどういう意味があるとかそういうのは全く関係のない世界というかものすごく限られた小さいデータベースへの無意識の参照の連続(音を出す方も聴く方も文脈の設定だけやればあとは何も考えなくて済む)だけで成り立っていてこれはすごいことだと思ったがそうこうしているうちにThe Matthew Herbert Big Bandのライブ映像を発見して見てみたがうーんまあどうだろうこの曲を聴くといつも古畑任三郎を思い出すのは確かであとどうでもいいが先日のgreen day「basket case」は最初のギターリフというかバッキングを全部ダウンピッキングで弾くかどうかで気合いが問われると思っていた。