福居伸宏さんのÜbungsplatz〔練習場〕
2007-07-25 アンゴルモアの大王の命日 より

やたら「ポストモダン」とか「脱構築」を連発する人を素直に信用することができないのと同様に、むやみに「アフォーダンス」とか「クオリア」を連発する人を素直に信用することができません。(英語直訳風)

あれ、精神分析が入ってない入れ忘れたのかなと思って☆マークをひとつ押した。
ポストモダン」とか「脱構築」とかその語を知らなくても
その語が意味するところやその語の周辺が意味するところにおいて
いつのまにか自分自身を罠に嵌めることになってしまっている人が多いような気もする。
私もその一人である、たぶん。
ポストモダン」も「脱構築」も「アフォーダンス」も「クオリア」も「精神分析」もその他もろもろも
それがなんなのか私には良く分からないが、
それ自身が決めたある範囲において世界を説明できるという意味では
それは単なる方法であるように思えて
それを世界の見方の中心に置いてしまってはまずいということで
わざと中心に置いてみて視界の端を横切るなにかを
そーっと横目で観察するためくらいにしか役に立たないと思うのだが
どうだろうかそうでもないだろうか。
福井さんのはてなダイアリーとか
15年くらい前の美術手帳の写真特集とかを読んでいると
つくづくいまの「録音すること」は狭いなあと思う。
風景を音で再現するとか考えたり
音を音楽化する最終兵器のように考えたり
いまここがいつでもどこでもになるとか考えたり
音/音楽の制度を問題にしてみたり
そういう考えもいいけれど
もっとなにかあるような気もする
といっても私にはさっぱり分からない。
私が知らないだけかもしれない。
ついでに同じく福居伸宏さんのÜbungsplatz〔練習場〕経由で
大森俊克 SHOW TIME 「寒い」より

ハナシが硬くなってきたついでにいうと、80年代のシミュレーショニズムにさえ衒学性と解釈学的反省のなさは満ち満ち溢れていたのだが、それでもそれが批評として機能してこれたのは、おそらく「脱構築」というフォーマットの援用によってである。この場合の脱構築とはごく簡単にいって: 1.美術史や政治学、哲学をベースにもってくる 2.それについて論じる、つまりはその言説内部へと批評主体が入り込む 3.と、おもったら自らの破綻や矛盾をみつけ、内部から自己犠牲によって亀裂を広げるように新しい意味領域をつくり 4。今度はそっちのあらたな主体のほうに「逃げる」  という方法論である(わかりにくいけど)。

この方法はほんとうに実感を持って理解できる。
なぜなら私がしようとしている(いた?)ことだから。
別に「脱構築」とかそういうことは意識していないし理解もしていないけれど
3と4のプロセスのみ取り出して
自らの破綻や矛盾の亀裂から(外という)内から外(という内)へ
とにかく死ぬまで「逃げ」続けるなら
なにかしらの意味があるのかもしれないとか思っている(いた?)のだけれど
どうだろうかそうでもないようなバカバカしいような気もする。